琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

「産めない」と「産まない」の違い


子宮が悪くなって考えたこと(by はてな匿名ダイアリー)

 このエントリに対して、何かをアドバイスしたり、自分の意見を述べる、という心境に僕はなれません。でも、なんというか、多くの人の目に触れてほしい文章だと思っています。

産めないと産まないって違うんだなって。

自分でもびっくりだよ。

 僕は、ネット上などで、おそらく高校生〜20代前半くらいの男が、「非モテ」、「もう結婚なんてしない」「子供なんていらない」なんて自虐的に書いているのを読むと、正直「ああ、お前らの『非モテ』には、リアリティの欠片もねえよ」と思うのです。
 いや、正直僕もそのくらいの年齢のときは(というか今でも)全然モテませんでしたし、「もう一生女性とは縁が無いんじゃないか」「結婚なんてしなくていいや」と真剣に考えていたんですけどね。

 でもね、人って本当に変わっていくものです。別に「モテるようになった」わけじゃないんだけど、僕の場合は、30を越えたくらいから、少しずつ「結婚してみようかな」と思うようになってきました。まあ、本当は「結婚してみようかな」というよりは、「このまま結婚しなくてもいいのだろうか?」と感じるようになってきたのです。
 そして、自分が子供を愛せる自信がないので、子供なんて要らないや、と思っていたのですが、最近は「もしできたらがんばって向き合っていこう」と考えるようにしています。子供の頃は、なんとなく「父親はモノで解決しようとしかしない人間だ」などと嫌っていたのですけどね。
 今は、なんとなくわかるんだよね。「愛してないから、物質で解決しようとしていた」わけじゃなくて、「愛情表現の方法がわからなくて悩んだ挙句、せめて物質的に困らないようにとできる限りのことをしようとしていた」のだろうな、って。そもそも、自分の子供とはいえ、「自分以外の人間を育てるためのお金を稼いでくる」というだけでも、かなりの愛情なのだと思う。

臓器移植を受けてでも、生きたいですか?
↑のような話を、以前書いたことがあります。
やっぱり世の中には、その当事者になってみなければわからない感情やら感傷というのはあるのです。
ある物事に対する人間のスタンスというのは、それぞれが置かれている立場によって、全く異ってくることも多いのです。
 「代理母出産」についても、男性と女性の考え方が違うのはもちろんなのですが、同じ「女性」で「同年代」であっても、「出産経験の有無」によって、あるいは、同じ出産経験がある人でも、スムースに子供ができた人と長年不妊治療の末に子供に恵まれた人では、おそらく異なった感想を抱くのではないでしょうか?

 いや、「非モテ」って言うけどさ、そうやってネットで語れるくらいの経済力と時間、そして「未来」があれば、その「絶望」は、ある種の「想定内の絶望」でしかないんだよね。本当に経済的にも厳しくて、異性に見向きもしてもらえなくて、もう時間もあまり残されていない人は、怖くて悔しくて自分のことを「非モテ」なんてネタにできないよ、たぶん。

 別に非モテの話をするつもりじゃなかったんだけど、ちょっと長くなってしまいました。
 「生きていく」っていうのは、「可能性を選ぶ」のと同時に「選んだ以外の道を捨てる」ことでもあるのです。今から考えたらバカバカしい話なんだけど、大学に入ったときには、僕は自分がもっと「すごい人間」だと、漠然と信じてた。ノーベル賞まではとれないかもしれないけど、教授くらいにはなっちゃったりするんじゃないか、とかね。
実際に仕事をやってみると、自分にはそういう勤勉さもないし、向き不向きはさておき、少なくとも「仕事よりも本を読んだりゲームやネットで遊んだりするほうが好き」で、「自分を騙し騙し、理想像に向かって突き進めるほどタフじゃない」こともわかってきたのです。ただでさえ「優秀な人間」が集まってくるこの業界で頭角を顕せるほどの人間じゃなかったんですよ、結局のところ。「名門校」って地元でもてはやされて甲子園に出てきたら、1回戦でPL学園に当たって完膚なきまでに打ちのめされた田舎の代表校、という感じ。この世の中には「勉強が好き」「研究が楽しい」という嗜好を持った人たちが確かに存在していて、僕のように「好きじゃないけど生きるための手段としてある程度勤勉にこなせる」という程度の人間には、やっぱり越えられない壁があるのではないかと痛感しているのです。
そんな中、こうしてブログなどを「書く」ということは、もともと本好き、活字好きでもあり、僕にとってはひとつの心の拠り所なんですよね。そして、最近のささやかな「夢」は、「死ぬまでに1冊、自分の本を出すこと(別に「自伝」ってわけじゃないけど)です。10年前の人生設計と比べれば、圧倒的にスケールダウンしていることは否めませんが……

 しかし、「表現すること」というのは、本気でやろうとすればするほど、とにかく奥が深いというか、思っているほどうまくいかないというか。実際に手をつけてみなければわからなかった「難しさ」というのは確実にあるのです。
 例えば、歴史小説を書くとしましょうか。
 書いてみるまでは、「合戦シーンをカッコよく書ければいいんだよな」って思っていたんですよ。
ところが、実際に書きはじめてみると、そういう派手なシーンというのは「書こうと思えば(出来の善し悪しはさておき)書ける」のですが、その合戦と合戦をうまく繋いで期待を高めていくような「日常」を書くほうが、かえって難しい。現代小説でも、服装の描写とか、日常会話が難しい。

 僕だって、そりゃあなんかこうでっかい新人賞でも獲って鳴り物入りで大手出版社から自分の本が出せればいいと思いますよ。でも、やればやるほど「そんなに甘いもんじゃない」ことを痛感するばかりですし、こうしているうちに、僕もどんどん年を取る。
 このまま年を取っていったとして、「自費出版するか、このまま死ぬか選んでください」という選択を迫られたら、それでも「自費出版なんてバカバカしいから絶対にやるもんか!」って言い切れるか?ってことなんです。
 昔の中国に、親の仇を討つために、仇の骨を墓から引きずり出して鞭打った武将がいました。
 周囲の人は、さすがに眉をひそめて「いくらなんでも、それは酷いんじゃないですか?」と諌めたのですが、その武将(伍子胥という人です)は、こんなふうに答えました。

「日暮れて道遠し、故に倒行してこれを逆施するのみ」

(日が暮れてしまっているのに目的地までは遠い、すなわち、自分にはもう残された時間が少ないのに本来の目的達成までの道のりはあまりに遠いから、非道であることは承知の上なのだが、こうするしかないのだ)

 僕の同級生くらいの女性医師が最近相次いで、昔の彼女たちだったら、たぶん歯牙にもかけなかったであろう相手と結婚していきました。彼女たちはみんな「恋愛や結婚よりも仕事」だと言っていたのに。
 彼女たちのひとりは、僕にこんな話をしてくれました。今までは結婚にも出産にも興味がなかったけれど、いま結婚しなかったら、あと何年かで出産ができる可能性が自分から失われてしまうというのが、ここにきて急に怖くなってきたのだ、と。

 かなりとりとめのない話で、お目汚しではあると思うのですが、生きていて最も怖いことは、「何かができないこと」ではなくて、「何かができる可能性が失われていくこと」なのではないかなというようなことを最近よく考えています。そういうのって、いくら勉強したって、そう簡単に「克服」できるようなものじゃない。


 年を重ねるっていうのは、必ずしも悪いことばっかりじゃありません。僕に関していえば、なんとなく自分のことが赦せるようになったし、ちょっとだけ好きになりました。自分で稼いだお金で自分の好きなことを(なんでもかんでもってわけにはいきませんが)できるくらいの「自由」もあるしね。

 「年を取ったり、ある種の経験を積むことによって、人間の感じ方や考え方というのは、変わっていかざるをえない面があるのだ」というのは、間違いないことだと思うのです。
 そして僕は、「前にこういうふうに言ったから」という理由で、いまの自分を偽りたくはない。
 その場しのぎでしょっちゅう言っていることが変わったり、ダブルスタンダードになったりするのは僕も好きじゃないです。
 ただ、僕は自分がこうして生きている過程で「考えが変わってきた」ところに関しては、それを素直に認めていくつもりです。それが「不誠実」だと言う人が大勢いたとしてもね。

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