- 作者: トルーマン・カポーティ,村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2008/02/29
- メディア: 単行本
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[要旨]
ホリーは朝のシリアルのように健康で、石鹸やレモンのように清潔、そして少しあやしい、16歳にも30歳にも見える、自由奔放で不思議なヒロイン。―第二次世界大戦下のニューヨークを舞台に、神童・カポーティが精魂を傾け、無垢の世界との訣別を果たした名作。
[出版社商品紹介]
ニューヨークの社交界を、そして世界の読者を魅了したヒロイン、ホリー・ゴライトリーが、村上春樹の新訳で新しい世紀を歩みはじめる。
なんだか地味な装丁だなあ……と書店で見つけたとき感じたのですが(というか、見つけるのにちょっと苦労しました)、この色は「ティファニー・カラー」で、「映画の写真などは使いたくない」という訳者・村上春樹さんの意向だったのですね。
僕がこういう「古典」を積極的に手にとりはじめたのはここ数年のことで、この『ティファニーで朝食を』は初読でした。
「物語」としては、少なくとも2008年に生きている僕にとって、そんなに「新鮮」なものではないです。いやまあ、20世紀半ばのアメリカ・ニューヨークというのは、こういう「空気」だったのか……という感銘はあるんですけどね。
この物語における「自由闊達なヒロインと彼女にひたすら振り回されるひねくれた男」という人物像や物語の展開は、「今読んでも新しい!」というものではないですしね。
そして、この小説を村上さんの訳で読んであらためて感じたのは、「ある小説が歴史に残るかどうかのポイントは、テーマの新しさではなくて、登場する人物造形の精緻さとか文章の美しさではないか?」ということなのです。
この物語の冒頭、トルーマン・カポーティの原文はこうなっています。
I am always drawn back to places where I have lived, the houses and their neighborhoods. For instance, there is a brownstone in the East Seventies where, during the early years of the war, I had my first New York apartment.
僕は英語は苦手なんですが、これを声に出して読んでみると、なんだかすごく心地よいリズムの文章だと感じるんですよね。ブレスが入るポイントも絶妙。
ちなみに、村上さんはこんなふうに訳されています。
以前暮らしていた場所のことを、何かにつけてふと思い出す。どんな家に住んでいたか、近辺にどんなものがあったか、そんなことを。 たとえばニューヨークに出てきて最初に住んだのは、イーストサイド七十二丁目あたりにあるおなじみのブラウンストーンの建物だった。戦争が始まって間もない頃だ。
素晴らしい訳なんですけど、「文書のリズム」という点では、原文ほどの「完璧さ」はないように思われます。
僕は村上さんの作品大好きですし、村上さんのおかげでたくさんの「名作」が読めることに感謝してもいるのですが、声に出して読み比べてみると、「原著で読めるくらいの英語力があったらいいのになあ」と考えずにはいられません。もちろんこれは、「翻訳すること」の限界であって、村上さんの力量の問題ではないんですけど。
あと、『ティファニーで朝食を』を読んでいて痛感するのは、「人物描写の厚み」です。
僕は鉢に盛られたりんごを指差しながら、でもどうしてそんなに若いうちに家を出ることになったのと訊ねた。彼女はぽかんとした顔で僕を見て、それからむずがゆいところでもあるみたいに、鼻をこすった。その動作が何度か繰り返されるのを見ているうちに、これは「立ち入った質問はされたくない」という彼女なりのシグナルなのだと思いあたった。聞かれもしないのに、自らの内情をあけすけに好んでしゃべりたがる人が往々にしてそうであるように、彼女は直接的な質問をされたり、細部の説明を求められたりすると、とたんに防御が固くなった。彼女はりんごを一口齧り、言った。「あなたが書いているものの話をして。どんなお話なの?」
僕が最近読んでいる「現代小説」に出てくる「人物」で、ここまで多層的に描かれている人って、ほとんどいないような気がします。流行の「現代小説」の登場人物は「明るい兄」とか「身勝手な母」みたいな、「演劇の登場人物のような、表層的ですっきりとした人格」ばかりなんですよね。現実の人間の「性格」って、そんなに単純じゃないはずなのに。
そういえば、『カラマーゾフの兄弟』にも、「ああ、人間ってみんな、こんなふうに矛盾した面を持っているんだよなあ」と感動した記憶があります。
ただ、「読みやすさ」という点からすれば、「分厚い人物描写」は、必ずしもプラスにばかりは働かないんですけどね。
この『ティファニーで朝食を』にしても、『カラマーゾフの兄弟』にしても、「小説を読みなれていない人」にとっては、冗長なわりにはドラマとしての魅力が少ない話だと受け取られてしまう可能性は高いのではないでしょうか。
村上さんが、カポーティの小説に魅かれながらも、村上さん自身の作品ではそれほど執拗な人物描写を行わないのは、おそらく、村上さんなりの「職業作家としての戦略」ではあるのでしょう。
ちなみに、この本の「あとがき」によると、トルーマン・カポーティは、『ティファニーで朝食を』の主役をオードリー・ヘップバーンにすることに難色を示していたそうです。「原作のイメージと違うから」ということで。
ただ、この小説をそのまま「イメージ通り」に映画化しても、観客に受け入れられたかどうかは、ちょっと微妙なのではないかと思うんですけどね。「より多くの人の財布の紐を緩める」という意味では、やっぱり「正解」だったのではないかなあ。
「どろろが柴咲コウになっちゃうよりは、はるかに良心的」などと言っては、カポーティに失礼かもしれませんが……
啓蟄/カポーティ・村上春樹訳『ティファニーで朝食を』(Feel in my bones (2008/3/5))
↑の感想が素晴らしかったので、御一読をお薦めします。