琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「取締役を退任しました」という選択


そうそう、↑の本を読んでいたときに、ちょうど
このエントリ(取締役を退任しました - naoyaのはてなダイアリー)
を読んだので、原田泳幸さんがこんなことを書かれていたのを紹介しておきます。

 現在の日本のシステムの中では、本当の意味での「適材適所」が阻害されている部分も大きいといえよう。ひとつの例を挙げれば、労働基準法によって、いちど引き上げた基本給は下げられなくなっているので、それが「人材の流動性」を損ねている部分があるともいえるのだ。
 たとえば、課長としていい仕事ができていた人を部長に昇格させたときに手腕をふるえなくなった場合や大きなミスをしたときにはどうするべきかを考えてみてほしい。
 いまの日本の企業では、リストラの対象にして、仕事の場所を奪ってしまうことがほとんどだろうが、一度の失敗だけで、その人のビジネス人生のハシゴを外してしまうことには大きな疑問が持たれる。
 人は、失敗から多くを学ぶものだし、失敗を次への糧にできる人ほど高い可能性を持っているものである。
 その人の真価を発揮してもらうためにも、一度や二度の失敗は許容すべきだと私は考えている。だからこそ、部長として失敗したら、もう一度、課長に戻し、そこで新たに成果を積み上げたあとに、再度、部長としてチャレンジさせるような柔軟なシステムを構築できたほうが企業にとっても当人にとってもずっといいはずだと考えている。
 個人個人の生き方という面から見ても、高い地位にのぼることばかりを目的としているのでは、人生がつまらなくなる。
 私にしても、いまは社長を務めているが、「もう社長としてやることはやったし、疲れたので、社長職からは退任して、ハンバーガー大学の教授にしてもらえないだろうか。給料は何分の一になってもかまわない」と切り出す日がそのうち来るかもしれないのだ。また、たった一度の人生なのだから、一軒のラーメン屋を経営するといった経験もしてみたいという気持ちもあるし、実際にいつかはそうすることも考えられる。
 大企業のトップとして働いた人が、定年後に大学の講師になったりコンサルティング業務を行うことになるケースも多く、それはそれで素晴らしいことだと思う。しかし、実際にそういう人生を歩むことになった人は、そこで大企業のトップという肩書きを失い。社用車に乗れなくなるといった現実に直面して屈辱感を味わうケースも少なくない。
 こうした気持ちを持ってしまう背景には、年功序列を基本とした日本のビジネス文化があるには違いない。その部分を変えていかなければビジネスマンは本当の意味での活躍ができず、日本のビジネスは成長できないともいえるだろう。

 そもそも、naoyaさんは何か大きな失敗をして「降格」させられたわけではないので、こんなふうに取り上げるのは失礼ではあるのですが。
 
 僕が知っている医者の世界でも「医者としての個人的な技量はすぐれているし、人間的にも大きな問題はないのだけれど、人をまとめたり引っ張ったりというのが苦手なタイプの人」というのはいます。僕は「日本のビジネス界」というものに全然詳しくないのですが、会社員のなかにも、そういう人は少なくないことは想像できるんですよね。
 しかしながら、今の日本の「一般的な企業文化」としては、「実績を積んだ人は、現場から離れて人をまとめる業務につくというのが『出世コース』」であり、「ひとりの技術者として最も力を発揮できる人」や「課長というポジションなら『スーパー課長』なのに、重役としては器が足りなくなってしまう人」は、不得手な能力ばかり要求された挙句に「無能な管理職」としてスポイルされてしまうんですよね。こういうのは、本当に「もったいない話」ではあります。
 まあ、僕のような中間管理職クラスの年齢になってくると、「そういうエスカレーター式の決まりでも作っておかないと、管理職になりたがる人なんていなくなっちゃうのかもしれないな」なんて考えたりもするのですけど。
 なんのかんの言っても、「あなたの同期の○○さんはもう課長なのに……」なんてプレッシャーが急に無くなるとも思えませんし。

 それに、こういうのはタイミングってやっぱりあると思うんですよね。
 naoyaさんだって、これから何年か経てば、「現場のプログラマーとしてよりも、取締役としての仕事のほうがしっくりくる時期」が来るかもしれません。
 そう考えると、日本型の「一度ハシゴを登ってしまうと、降りられなくなるシステム」というのは、非常にもったいないというか、いろんな可能性を狭めているような気もします。

 でもほんと、人の「本当の才能」っていうのはわかんないんですし、「人事」っていうのは難しいものだと思います。
 前漢の建国に貢献した韓信を高祖劉邦が大将軍に取り立てたとき、周りの人は「あの(弱虫の)韓信が!?」と肝をつぶしたそうです。
 逆に、とんでもない人物を重用してしまったばかりに、傾いてしまった王朝もたくさんあります。後世からみると、「なんであんなヤツを!」と唖然としてしまうような人物でも、当時の皇帝たちは、彼らを「有能」だと信じてしまっていたのです。

 千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず。

「適材適所」って、よく使われることばだけれど、それができる人って、ごく一部の「選ばれた人」なんですよね。

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