琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

物語を「消化」できない大人たちへ


要は、勇気がないんでしょ? - Attribute=51
↑のエントリ関連の盛り上がりも一段落ついたと思われるので、僕がこれを読んだあと、そのブックマークコメントを見て考えたことを書いておきます。このエントリのブックマークコメントを読みながら、なんというか、みんなもうちょっと「物語を消化する」トレーニングを積んだほうがいいんじゃないかと思ったのです。
「全肯定」か「全否定」しかできなくなってしまっている人がけっこういるようなので。

僕はこのエントリを読んでナンパしようなんて思わなかったし(妻帯者ですしね)、自分が変わればすべてがよくなるなんて信じてはいないけれども、「友達をつくる」とか「恋人が欲しい」という状況下でなら、「まず勇気を持って自分から声をかけるべきだ」っていうのは、「参考になるものの考えかた」だと思います。もちろん、ナンパがいきなりできる人はごくごくわずかなのだから、学校や職場で、ちょっと気になっている人に適用してみればいいのです。今まで挨拶を交わすくらいだった人に、ちょっと世間話してみるだけでも、何かのきっかけになるかもしれない。というか、多くの場合「きっかけ」なんてそんなものですから。

たぶん、大部分の「沈黙のネットユーザー」たちは、僕と同じように、こういうエントリに対して、「書いてあることを鵜呑みにはしないけれど、自分に役立つところを抽出し、アレンジして取り入れる」という姿勢のはずです。そもそも、「100%正しい人間」が存在しないように、「100%正しいたとえ話」というのもこの世には存在しないので。

ところが、そんなことはちょっと考えればわかるはずなのに、「この例は100%の正解じゃないから役に立たない!害悪だ!」と叫ぶ人がけっこういることに僕は驚いているのです。以前も書いたけれども、こういうタイプの人はとても危なっかしいところがあって、逆に、「自分が100%正しいと信じてしまった物語」に対しては、疑う姿勢を放棄してしまいがちなんですよね。オウム真理教を信じて、地下鉄でサリンを撒いた人たちは、まさにそうだったわけで。

村上春樹さんが、「小説の役目」について、こんなことを書かれています。
『約束された場所で』というオウム信者たちへのインタビュー集を読んだ読者からの、「オウム信者の人たちは、この世の中に『忘れられた人々」であり、オウムというのは、彼らにとっての『自分たちだけの入り口』だったのではないか?」と問いに対する回答です。

村上春樹さんの回答>

 我々はみんなこうして日々を生きながら、自分がもっともよく理解され、自分がものごとをもっともよく理解できる場所を探し続けているのではないだろうか、という気がすることがよくあります。どこかにきっとそういう場所があるはずだと思って。でもそういう場所って、ほとんどの人にとって、実際に探し当てることはむずかしい、というか不可能なのかもしれません。
 だからこそ僕らは、自分の心の中に、あるいは想像力や観念の中に、そのような「特別な場所」を見いだしたり、創りあげたりすることになります。小説の役目のひとつは、読者にそのような場所を示し、あるいは提供することにあります。それは「物語」というかたちをとって、古代からずっと続けられてきた作業であり、僕も小説家の端くれとして、その伝統を引き継いでいるだけのことです。あなたがもしそのような「僕の場所」を気に入ってくれたとしたら、僕はとても嬉しいです。
 しかしそのような作業は、あなたも指摘されているように、ある場所にはけっこう危険な可能性を含んでいます。その「特別な場所」の入り口を熱心に求めるあまり、間違った人々によって、間違った場所に導かれてしまうおそれがあるからです。たとえば、オウム真理教に入信して、命じられるままに、犯罪行為を犯してしまった人々のように。どうすればそのような危険を避けることができるか?僕に言えるのは、良質な物語をたくさん読んで下さい、ということです。良質な物語は、間違った物語を見分ける能力を育てます。

 「古典的な名作」(『カラマーゾフの兄弟』とかですね)を読むことの意義のひとつは、「時間というもっともシビアな評価に耐えて生き残った『良質な物語』に触れることができること」なのでしょう。
 この村上さんの「回答」は本当に素晴らしい文章だと思うし、「小説の存在意義」みたいなものをこれほど美しい文章にしたものを僕は他に知りません。ただ、「良質な物語」というのをどうやって見分ければいいのか?というのは、とてもとても難しい問題なのではあるのですよね。経験を積めばある程度はわかるようにはなるのだとしても。
 「事故を起こしてみないと車の運転は上手くならない」なんて言うけれど、その最初に起こした事故が死亡事故だったりすれば「経験を積む」どころではないわけだし、「めぐりあわせ」というのはやっぱりあるのかもしれません。

 どんな物語にも学ぶべきところはあるし、どんな物語にも疑うべきところはあるのなら、あとは、「それをどう消化し、自分に有益なかたちで吸収していくか」なんですよね。

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