琥珀色の戯言

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光母子殺害:元少年に死刑判決 広島高裁


光母子殺害:元少年に死刑判決 広島高裁(毎日新聞)

 僕はこの事件についての報道をずっと追ってきて、「これで極刑にならなかったら、日本の裁判所の量刑というのは、どれだけ加害者に甘いんだ!」と、ずっと考えてきました。
 でも、今日この判決を聞いて感じるのは、「これが正義だ!」というような爽快感ではなくて、なんというか、うまく言葉にできないやるせなさ、みたいなものなんですよね。
 これは、本村さんにとって、まちがいなく「一区切り」であり、ひとつの「成果」ではあると思います。そして、今後の日本の裁判における量刑基準の見直しにもつながることでしょう。
 ただ、たぶんこの判決が出たからといって、本村さんが「救われる」ことはないはずです。
 加害者を「死刑」にしたって、陵辱された挙句に殺められた妻や子供は戻ってきません。それでも、「戻ってこない」からといって、加害者を赦すことはできないはずだし、彼が極刑にならずに生き延び、「無期懲役」という判決で数十年後に「社会復帰」すると想像するだけでも、本村さんにとっては引き裂かれるような気持ちだったのではないでしょうか。
 しかしながら、この犯人が死刑になることにより、本村さんは、これから「(どんな酷いことをした人間とはいえ)人を一人死刑にするために尽力した」という負い目をも背負っていくことになります。それは、周囲からすれば「あなたは当然のことをしただけですよ」と言いたくなることなのだけれども、本人にとっては、そんなに簡単に割り切れるようなことではないでしょう。
 犯罪の被害者になるというのは、こんなにもいたたまれない、悲しいことなのか、と僕は考えずにはいられません。
 こんな事件の被害者にならなければ、本村さんは、たぶん、もっと平凡で幸せな人生を送れていたはずなのに。
 そして、本村さんの身に突然起こったことと同じことが、明日僕たちの身にも起こらないとは限らない。

本村洋さんの話 9年は遺族にとって長かった。判決は裁判を通じて思った疑問をすべて解決してくれ、厳粛な気持ちで受け止めている。私の妻子と(死刑判決を受けた)被告の3人の命が奪われることになった。社会にとっては不利益で、凶悪犯罪を生まない社会をどうつくっていくか考える契機にしたい。

日刊スポーツの記事より。

 今も耳に残る「洋、一緒に生きよ」という弥生さんの声、夕夏ちゃんの愛らしい笑顔。事件から9年、3人で暮らした幸せな日々を胸に「家族の命を無駄にしないためにどうするか」を考え続けてきた。

 「人の命を奪った者は、その命で償うしかない」。これまで一貫して元少年に死刑を求めてきた。公の場で人の命を奪う発言をすることが正しいのかどうか、今も自問自答を繰り返す。

 「刑罰は手段。目的は、平和で安全な社会をつくること。人をあやめた愚かしさを社会に知らせることが、彼の役目だ」

 1審の山口地裁では、遺影の持ち込みすら許されなかった。インターネット上に殺害状況の図解が出回り、差し戻し審で「家族の命がもてあそばれている。涙があふれた」と意見陳述した。

 僕は死刑が「正義」だとは思いません。
 でも、少なくともこの事件に関しては、「妥当」だと考えています。



【本村洋さん会見詳細】(毎日新聞) 

 −−今回の少年は(犯行時)18歳。ハードルが外れ、今後、少年の死刑判決が続くと思いますか。

本村 そもそも、死刑に対するハードルと考えることがおかしい。日本の法律は1人でも人を殺めたら死刑を科すことができる。それは法律じゃない、勝手に作った司法の慣例です。

 今回、最も尊うべきは、過去の判例にとらわれず、個別の事案をきちんと審査して、それが死刑に値するかどうかということを的確に判断したことです。今までの裁判であれば、18歳と30日、死者は2名、無期で決まり、それに合わせて判決文を書いていくのが当たり前だったと思います。そこを今回、乗り越えたことが非常に重要でありますし、裁判員制度の前にこういった画期的な判例が出たことが重要だと思いますし、もっと言えば過去の判例にとらわれず、それぞれ個別の事案を審査し、その世情に合った判決を出す風土が生まれることを切望します。

 −−日本の司法に与えた影響については。

本村 私は事件に遭うまでは六法全書も開いたことがない人間でした。それがこういった事件に巻き込まれて、裁判というものに深く関わることになりました。私が裁判に関わった当初は刑事司法において、被害者の地位や権利はまったくありませんでした。それが、この9年間で意見陳述権が認められましたし、優先傍聴権も認められる。例えば今回のように4000人も傍聴に訪れたら、遺族は絶対傍聴できなかった。それが優先傍聴権があるために私たち遺族は全員傍聴できた。これからは被害者参加制度ができて被害者は当事者として刑事裁判の中に入ることができる。

 そういったことで司法は大きく変わっていると思いますし、これから裁判員制度をにらんで司法が国家試験、司法試験を通った方だけではなく、被害者も加害者も、そして一般の方も参加して、社会の問題を自ら解決するという民主主義の機運が高まる方向に向かっていると思います。実際に裁判に関わって、まったく被害者の権利を認めていない時代から、意見陳述が認められて、傍聴席も確保できて、そういった過渡期に裁判を迎えられたことは意義深いと思ってます。

「それは法律じゃない、勝手に作った司法の慣例です」
確かにその通りなんですよね。ただ、その一方で、映画『それでもボクはやってない』で描かれていたように、司法に携わる人間たちにとっても、個々のケースについて詳細に検討していくだけの人的・時間的余裕がないというのも現実なのだと思います。

あと、こんなふうに「自分の妻や子供が犠牲者である裁判」に関して極めて客観的かつ大局的見地から語っている本村さんの言葉を読んでいると、この9年間に、本村さんが「人としての自然な感情の起伏」みたいなものをすごく犠牲にしてきたのだろうな、ということが感じられて、僕はものすごく悲しくなってきました。

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