琥珀色の戯言

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村上春樹にご用心 ☆☆☆☆


村上春樹にご用心

村上春樹にご用心

内容紹介
ベストセラー『下流志向』のウチダ教授が村上文学の秘密をついに解きあかす!
村上春樹はなぜ世界中で読まれているのか?
風の歌を聴け』から『アフターダーク』までを貫くモチーフとはなにか?
なぜ文芸批評家から憎まれるのか? うなぎとはなにか?

──だれにも書けなかった画期的な村上春樹論登場!
「これはカッキ的文学論である。読めば、びっくり」(著者)

本文より 「私たちの平凡な日常そのものが宇宙論的なドラマの「現場」なのだということを実感させてくれるからこそ、
人々は村上春樹を読むと、少し元気になって、お掃除をしたりアイロンかけをしたり、
友だちに電話をしたりするのである。それはとってもとってもとっても、たいせつなことだと私は思う。」

 この本、実は発売直後に買って、そのまま積みっぱなしになっていたんですよね。
 今回は何の気なしに読み始めてみたのですが、長年、村上春樹ファンでありながら、「まあ、あんまりいろいろテーマとか考えずに文章の流れに身を任せるのが村上春樹の読み方なんじゃないの」なんてうそぶいていた僕にとっては、すごく勉強になる本でした。もちろん、この本に書かれていることが100%の「正解」ではないとも思うのですが、これほどわかりやすい言葉で、「村上春樹がなぜああいう小説を書きつづけているのか」を書いてある本は、いままでに読んだことがありません。『村上春樹イエローページ』という興味深い本もあるのですが、正直、あの本は僕にはちょっと難しすぎましたし。

 家事は「シジフォス」の苦悩に似ている。どれほど掃除しても、毎日のようにゴミは溜まってゆく。洗濯しても洗濯しても洗濯物は増える。私ひとりの家でさえ、そこに秩序を維持するためには絶えざる家事行動が必要である。少しでも怠ると、家の中はたちまちカオスの淵へ接近する。だからシジフォスが山の上から転落してくる岩をまた押し上げるように、廊下の隅にたまってゆくほこりをときどき掻き出さなければならない。
 洗面所の床を磨きながら、「センチネル」ということばを思い出す。 
 人間的世界がカオスの淵に呑み込まれないように、崖っぷちに立って毎日数センチずつじりじりと押し戻す仕事。
 家事には「そういう感じ」がする。とくに達成感があるわけでもないし、賃金も払われないし、社会的敬意も向けられない。けれども、誰かが黙ってこの「雪かき仕事」をしていないと、人間的秩序は崩落してしまう。
 ホールデン・コールフィールド少年は妹のフィービーに「好きなこと」を問われて、自分がやりたいたったひとつの仕事についてこう語る。

 だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方へ走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。 (J.D.サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ』、村上春樹訳、白水社、2003年、287ページ)

 高校生のときにはじめてこの箇所を読んだとき、私は意味が全然分からなかった。
 何だよ、その「クレイジーな崖っぷち」っていうのはさ。
 でも、それから大きくなって、愛したり、憎んだり、ものを壊したり、作ったり、出会ったり、別れたり、いろいろなことをしてきたら、いくつかわかったこともある。 
 「キャッチャー」仕事をする人間がこの世界には絶対必要だ、ということもその一つだ。
 「キャッチャー」はけっこう切ない仕事である。
 「子どもたちしかいない世界」だからこそ必要な仕事なんだけれど、当の子どもたちには「キャッチャー」の仕事の意味なんかわからない。崖っぷちで「キャッチ」されても、たぶん、ほとんどの子どもたちは「ありがとう」さえ言わないだろう。
 感謝もされず、対価も支払われない。でも、そういう「センチネル(歩哨)」の仕事は誰かが担わなくてはならない。
 世の中には、「誰かがやらなければならないのなら、私がやる」というふうに考える人と、「誰かがやらなくてはならいんだから、誰かがやるだろう」というふうに考える人の二種類がいる。
 「キャッチャー」は第一の種類の人間が引き受ける仕事である。ときどき、「あ、オレがやります」と手を挙げてくれる人がいれば、人間的秩序はそこそこ保たれる。
 そういう人が必ずいたので、人間世界の秩序はこれまでも保たれてきたし、これからもそういう人は必ずいるだろうから、人間世界の秩序は引き続き保たれるはずである。
 でも、自分の努力にはつねに正当な評価や代償や栄誉が与えられるべきだと思っている人間は「キャッチャー」や「センチネル」の仕事には向かない。適性を論じる以前に、彼らは世の中には「そんな仕事」が存在するということさえ想像できないからである。
 家事はとても、とてもたいせつな仕事だ。
 家事を毎日きちきちとしている人間には、「シジフォス」(@アルベール・カミュ)や「キャッチャー」(@J.D.サリンジャー)や「雪かき」(@村上春樹)や「女性的なるもの」(@エマニュエル・レヴィナス)が「家事をする人」の人類学的な使命の通じるものだということが直感的にわかるはずである。

 霊的成長というものがあるとしたら、それは「私がいなくても、みんな大丈夫。だって、もう『つないで』おいたから」というかたちをとるんじゃないかと思います。
 村上春樹の小説にはときどき「配電盤」が出てきます。
 例えば、『1973年のピンボール』。

 「配電盤?」
 「なあに、それ?」
 「電話の回線を司る機械だよ。」
 わからない、と二人は言った。そこで僕は残りの説明を工事人に引き渡した。
 「ん……、つまりね、電話の回線が何本もそこに集まっているわけです。なんていうかね、お母さん犬が1匹いてね、その下に仔犬が何匹もいるわけですよ。ほら、わかるでしょ?」
 「?」
 「わかんないわ。」
 「ええ……、それでそのお母さん犬が仔犬たちを養ってるわけです。……お母さん犬が死ぬと仔犬たちも死ぬ。だもんで、お母さんが死にかけるとあたしたちが新しいお母さんに取替えにやってくるわけなんです。」
 「素敵ね。」
 「すごい。」
 僕も感心した。  (『1973年のピンボール』、講談社文庫、1983年、48ページ)

 うーん、ウチダも感心しました。
 これはやはり「霊的生活」の比喩じゃないかなと思います。村上春樹って、「そういう話」ばかりしている人ですからね。
 霊的成長っていうのは、配電盤としての機能を全うするということじゃないか、と。私はそんなふうに思っています。
 私がいなくなっても、誰も困らないようにきちんと「つないで」おいたおかげで、回りの人たちが、私がいなくなった翌日からも私がいないときと同じように愉快に暮らせるように配慮すること。
 そういう人に私はなりたいと思っています。

 2つのかなり長い文章を引用させていただいたのですが、「個人主義的な文学」だというイメージを持たれがちな(というか、僕もそういう印象を持っていました)村上春樹作品というのは、実は、「目に見えないところ(あるいは、多くの人が目に留めないところ)で、ある種の『破綻の予兆』みたいなものを防ぐ防波堤になっている人たちの物語なのだ、ということなのでしょう。そして、彼らが極めて「個人主義的」に見えるのは、実際は、「多くの『センチネル』に向かない人々」にとっては、彼らの行動が理解不能だからなのかもしれません。
 そう言われてみれば、『海辺のカフカ』なんて、まさに「このテーマそのもの」の話ですよね。『ねじまき鳥クロニクル』もそうだよなあ。『世界の終わりと、ハードボイルドワンダーランド』も。
 いや、『ノルウェイの森』もそういう話なのか、と言われると僕はちょっと疑問ですし(直子が「配電盤」だったのか?)、『風の歌を聴け』の時代から村上さんがそんなことを意識されていたのかは、ちょっとわかりませんが。
 こうしてみると、村上さんが年を重ねるにつれ、そして、オウム真理教地下鉄サリン事件への取材や阪神淡路大震災を村上さん自身が体験されたことによって、このテーマは、より率直に語られるようになってきているのかな、という気がするんですよね。

 このことを考えてみると、僕がずっと感じていた「伊坂幸太郎村上春樹に似ている理由」というのもわかります。その「類似点」を、僕は文体だとか比喩の使い方だと思っていたのだけれど、いちばん似ているところは、伊坂さんも『キャッチャー』や『センチネル』の話を書いている(あるいは、書こうとしている)ところなんですよね。ただ、伊坂さんの場合は、その「破綻の予兆」が、国家だったり政治だったりとあまりに露骨にあらわれているのが、「わかりやすさ」でもあり、僕にとっては「ちょっと誇大妄想的なところ」でもあるのですが。

 僕も『ライ麦畑でつかまえて』のこの場面を昔読んで、正直、「悪趣味なガキだなあ」と思ったんですよね。そんなに崖から落ちそうな子どもが好きなのか?と。そんなことやって、何が楽しいのか、全然わからなかったし。
 でも、この文章を読んで、ようやく、なんであの場面が、あの頃の僕にあんなに強い印象を残したのか、ようやくわかったような気がしました。
 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、もう一度読み直してみるつもりです。


 実はこの本、「村上春樹本」のようで、あんまり関係ない(ように思われる)話も多く、最初から一冊の本にすることを想定した書き下ろしではなく、内田樹先生がブログをはじめとするさまざまな媒体に書かれた「村上春樹に多かれ少なかれ言及した文章」を集めたものです。
 そのため、話があちこち飛んだり、同じような話が繰り返されることもあるので、1冊の本としては、ちょっとまとまりが悪いんですよね。
 でもほんと、ここで御紹介したように、村上春樹ファンが「そういう読みかたがあったのか!」と感動してしまう言葉が詰め込まれているのです。面白そうなところだけ、かいつまんで読んでも、十分元はとれます。
 ただし、あくまでも「村上春樹ファン限定のオススメ本」です。
 アンチの人には、面白い、つまらない以前に、「何が書いてあるのか、全然わからない」と思うから。

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