琥珀色の戯言

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ケータイ小説活字革命論―新世代へのマーケティング術 ☆☆☆☆


[BOOKデータベースより]
若者の活字離れが叫ばれて久しいが、なぜか「ケータイ小説」と呼ばれるジャンルからは続々とミリオンセラーが誕生している。ケータイで小説を書く・読むという文化は、そのコンテンツが書籍化・映画化されることで、またたくまに巨大な市場を形成した。大人には理解しがたいこの現象の秘密を、その生みの親ともいえる「魔法のiらんど」のプロデューサーだった著者が明かす。ケータイという双方向のデバイスを身体の一部のように使いこなす若者たちに、もはや従来のマーケティング手法は通用しない。

第1章 黎明期のケータイビジネス(ケータイ小説は“仕掛けられた”ものではない;「考えるな、感じろ」 ほか);
第2章 魔法のiらんどという奇跡(魔法のiらんどの功績;“人のいい”会社だった魔法のiらんど ほか);
第3章 『天くれ』が開いた扉(PCより身体に近いケータイ;口コミで広まった『天くれ』 ほか);
第4章 『恋空』の爆発とメディアミックス(2006年の大ブレイク;さらにブームが加熱した2007年 ほか);
第5章 メガヒットのメカニズム(どう書かれているか、ではなく、何が書かれているか;黄金の法則などない ほか)

 正直、「小説のひとつのジャンルとしてのケータイ小説」についての話なのか、「マーケティング」について書かれたビジネス書なのか中途半端なところがあり、「ケータイ小説」という現象に興味がある人以外には、オススメしにくい本です。
 ただ、これまでは「既成の『文学』の側からの『ケータイ小説』へのアプローチというか言及はしばしばなされてきたのですが、この本の著者の伊東さんのようなケータイ小説を世に広めた側からの発言って、そんなに多くはなかったんですよね。そういう意味では、とても貴重な本だと思います。僕もずっと、「既成のものより、文学としてのクオリティは明らかに低いはずの『ケータイ小説』が、なぜこんなに売れるんだ?」と憤りにも近い疑問を持っていたのですが、『ケータイ小説』を選ぶ側には、それなりの理由があるんですよねやっぱり。

 『ケータイ小説』の大きなターニングポイントとなった『天使がくれたもの』が書籍化されるきっかけについての話。

 きっかけは、編集部にかかってきたある女性からの1本の電話だったという。アケミと名乗るその女性からの電話は、ケータイで読める小説で、『天くれ』という感動する作品があり、それを書籍化してほしいという熱烈な訴えであった。その女性は、その作品がいかに胸を打つ作品なのか、自分の周囲の人間がどれだけ支持しているのかを、涙ながらに切々と語ったのだという。延々1時間、そこまで言うのならと、編集者はその訴えに心を動かされ、作品を読んでみた。そしてこれはいけるかもしれないと踏み、書籍化に動くことになった。
 この記念すべき、素人によるケータイ小説の最初の書籍化をつき動かしたのは、出版社による発掘でもなく、著者による売り込みでもなく、それが投稿されていたサイトの企画でもなかった。作品に純粋に感動し、単純にこの感動をより多くの人に味わってもらいたいという一ファンの想いが高じて、自発的かつ衝動的な訴えにつながった。
 ”ケータイ小説”を語る上で、あまりにも象徴的とも言える逸話である。そもそも、それをケータイで綴った作者のChacoさんは、決して小説を書きたかったわけでもなく、ましてや小説家になりたかったわけでもなかったと後に語っている。

この「涙なからに電話で切々と語った女性」は作者なんじゃないか?というような「揚げ足取り」をしたくなってしまうのですが、その後の『天使がくれたもの』の売り上げをみると、こういう「読者」がたくさんいた、ということなんでしょうね。
 そしてたぶん、この「ケータイで読める話」を読者が熱狂的に支持したのは、その「内容」や「文章の巧さ」に対してではなく、

 先にも書いたように、『天くれ』に登場するカグに相当すつ相手に思いを伝えられないまま、永遠の別れという結果を迎えてしまった過去のトラウマを抱えて、5年という歳月を過ごした。その間、お墓参りにも行けなかった。当時の仲間に会いに行くこともできなかった。そんな空白の5年間に区切りをつけ、自分と向き合う手段として出会ったのが、ケータイ上にしたためる小説投稿機能だった。

 という、「作者が抱えていた背景」ではないかと僕は感じます。プロの作家たメディアが「商売として仕掛けた」作品に対する違和感が、若い読者を、自分と同じような立場が「自分と向き合う手段として書いている『ケータイ小説』」に向かわせたのではないかと。
 そして、そのことは、『ケータイ小説の今後』にとっては、けっして明るい材料ではないでしょう。
 今は、『ケータイ小説』が商売になるというのは周知の事実ですし、そうなれば、作者にも「欲」というか「読者を意識したサービス精神」が生まれてきているはずです。
 でも、そんな『書籍化を意識したケータイ小説』っていうのは、ある意味、「既成の文学」に近づいてしまっているのかもしれません。
 そうなると、いままでの読者は、急速に離れてしまうのではないかと思います。
 読者、とくに若者っていうのは「商売っ気」に敏感だから。
 実際、『ケータイ小説』の市場は、同じような作品の濫造もあり、すでにピークを過ぎているように感じられます。

 あと、『ケータイ小説』と「ブログの書籍化」についてのこんな話も興味深かったです。
(ベストセラーを頻出している『ケータイ小説』に対して、「ブログの書籍化」が『電車男』『生協の白石さん』などのごく一部を除いて、案外売れていない、という話を受けて)

 なぜだろうか? そもそも、最初から小説として書かれているケータイ小説と、日記として、あるいは単なる掲示板の書き込みとして存在したものを出版物にするのでは根本的な違いはあるだろう。だが、それ以上に大きいのは、デバイスの性質、それを使う人間との距離感が大きいのだろいう僕自身の持論がある。
 PCでは、前にも述べた通り、パソコンモニターを通してある程度の距離感を持ってオンライン上のコンテンツやオンラインの先にいる人たちと接しているはずだ。最近でこそ、常時接続で絶えず起動している人も少なくないが、やはり使用するためには、パソコンを起動させ、あるいはスリープから復帰させ……という具合で、パソコンの前に常時座っているということでなければ、ひとまず構えてから使い始めるはずだ。
 対して、ケータイはデバイスを絶えず身につけるような感覚に近く、使用もオンデマンド、利用者が使いたいときにその場で使い始められる。おそらく、そのデバイスに対する命令系統も頭脳とより直結している可能性が高い。身体の一部であるが故に、オンラインの先にいる人たちとのやりとりもお互いにダイレクトに体の中、心の中に入ってくる。傷つきやすく喜びやすい。結果的にその中のコンテンツにも共感を生みやすく、感情移入しやすい、というのが僕の持論である。
 オンラインの場に臨む書き手の意識も若干違うのかもしれないとも思う。ブログでは、その主役は大方の場合、完璧に書き手となるブロガーになるケースが多いと思う。だが、ケータイ小説では、必ずしも作者自身が完全なる主役として立っているわけではなくて、あえて主役を言うならばコンテンツそのものであり、ひょっとしたらコンテンツ、つまり小説の登場人物かもしれない。コンテンツ作成者としての主役をもし挙げるとしても、やはり作者と読者が共有し、形成する空気感、前項で言うところの集合体というのが、それに該当する気がする(ひょっとしたら、作者が存在しない『電車男』あたりは、それに近い存在かもしれない)。

 「ブログ本」は売れない、という話はもう既にかなり言い尽くされています。
 僕自身は、『ケータイ小説』に比べて「ブログ本」が売れない理由というのは、「ケータイ」と「パソコン+インターネット」のユーザー数、接続時間の違い、そして、『ケータイ小説』の場合は、書籍化されたほうが明らかに「読みやすい」のに対して、「ブログ本」は、「パソコン上のほうが読みやすい場合が多い」ということを考えていたのですが、ここで伊東さんが述べられているような「デバイスとの距離感」や「書き手の意識」というのも、重要な要素かもしれませんね。
 有名ブロガーには「メディアに露出する方向」に行く人が多いのに比べて、『ケータイ小説』の作者は、そのペンネームの知名度に比べると、「露出することを好まない」ように見えますし(そりゃあ、レイプされたとか中絶したとかいうような内容の話を書いていれば「顔出し」しにくいのが当然なのでしょうが)。

 僕自身は「『ケータイ小説』を認めたくない側」ではあるのですが、「バカな若者たちが、メディアに踊らされて粗悪な小説を買わされている」というような偏見に囚われるのもよくないな、と最近は考えるようになりました。とはいえ、僕にとっては、『天使がくれたもの』も『恋空』も、小説としては「読むにたえない作品」であることは事実なんですけど……

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