琥珀色の戯言

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秋葉原の事件とロバート・キャパの言葉


当事者じゃなくなればとたんに観客になる人々ってなんだかなあ - novtan別館(2008/6/8))
↑のエントリと、そのブックマークコメントを読んで。


まず、亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。人間の死というのは理不尽なものではあるけれども、こんな形での突然の死というのは、最も「あってほしくないこと」です。そして、怪我をされた方々が少しでも早く快復されますように。


 僕は昨夜のニュース番組でこの事件に関する報道を観ていて驚いたというか、気が滅入ってしまったのです。
 それは、この事件そのものの救いようのなさに対するものが大部分だったのですが、その番組中で、「通行人によって撮影された現場の写真」というのがたくさん流されていたことは、僕の憂鬱な気持ちを助長しました。
 もともと人間とはそういうもので、携帯カメラという「持ち歩ける記録装置」が身近になったのが最近だっただけ、なのかもしれませんけど。
 もし自分が現場にいたら……と想像してみるのですが、たぶん僕は逃げ惑っているばかりで、何もできなかっただろうと思われます。
 でも、犯人が捕まったら、こういう「歴史的な事件の現場に居合わせたこと」に対する高揚感、そして、「それを誰かに自分の経験として話したい衝動」を抑えられずに、「犯人の写真」を転送してくれるように求めた可能性はあるかもな、という気はするんですよね。
 その一方で、「被害者が血を流して倒れている場面」とかを撮影した人の気持ちはよくわからない。いや、「これをメディアに売ろう!」とか「これをブログで公開しよう!」というようなのは、わからなくはないんだけど、いまの僕の道徳観では、「犯人の写真はともかく、被害者や被害現場の写真を撮影するのはいけないこと」なんですよね。
 もし僕が被害者の遺族や友人だったら、「自分の大切な人の理不尽な死が、興味本位で取り扱われること」や「事件で死んだ人というイメージでしか世間でみられなくなってしまうこと」は、とても悔しく、悲しいことだと思うから。
 そして、この事件に関しては、「僕が被害に遭っていた可能性も十分ある」と感じているから。

 それでも、もし僕が歴史的大事件の現場に出くわすようなことがあったら、自分の功名心を抑えられず、「撮ってしまう」可能性は否定できません。そういう「発信する側になりたいという誘惑」って、すごく怖い物のような気もするけれど。
 この秋葉原の事件の場合、倒れている被害者を見つけたら、「やるべきこと」は、まず、「救護する」か「自分の身の安全のために逃げる」かのどちらかでしょう。ところがそこで、「助けも逃げもせずに現場にとどまって記録する」という行動をとった人が少なからずいたとうのは、驚くべきことです。まあ、写真撮ったあとすぐに救護したり逃げたりした人もいたんでしょうが、人間の「記録したい」という欲求は、そんなにまで強いものなのか。

 「こういうときに現場や被害者の写真を撮るのは人間の自然な感覚だし、しょうがない」というような考えかたが「常識」として主張されてしまうのは怖いです。自分が被害に遭ったときのことを考えれば「救護するか、逃げるのが『常識』」であってほしい。自分が刺されて呻いている場面を、周りの人が遠巻きにして携帯カメラでカシャカシャやっているのを想像するのは、本当にいたたまれないです。自分の身内がそんなふうに曝されていたら、僕はその「善意の撮影者」たちをずっと恨むと思います。どうして、助けようとしてくれなかったんだ?せめて、晒し者にするのをやめてくれなかったんだ?って。
 そういう感覚って、もう、現代人にはないのでしょうか……
 自分は常に、「報道する側」だとしか想像できない?
 みんなが事件現場で「当事者」ではなく「カメラマン」になってしまう世界って、ものすごく怖くない?

 残念なことに、この事件への「観客」の反応は、あの犯人が「凶行の場所に秋葉原を選んだ目的」を見事に達成してしまったように思われます。だからといって、「報道規制」されるようなものでもないだろうけど、これに影響されて、同じようなことをやろうとする人間が今後出てくる可能性は高そうです。

 戦場カメラマン、ロバート・キャパは、生前、こんなことを言っていたそうです。

「悲しむ人の傍らにいて、その苦しみを記録することしかできないのは、時にはつらい」

 いまの「報道」から、こういう「記録しかできないつらさ」が伝わってきますか?

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