琥珀色の戯言

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早わかり世界の文学 ☆☆☆☆


早わかり世界の文学―パスティーシュ読書術 (ちくま新書)

早わかり世界の文学―パスティーシュ読書術 (ちくま新書)

 新書には、こういう「講演を文章化した本」というのがけっこう多いのですけど、僕は基本的に、「聞いていて面白い講演」と「読んでいて面白い文章」は異なると考えていますので、そういう本はあまり好きではありません。
 でも、この本は「日本語で文章を書く」ことのエキスパートである清水義範さんが「パスティーシュ(模倣文学)によって文学の世界というのは連綿と繋がっているのだ、ということを語られているということで、かなり興味深く読めました。
 以前、恩田陸さんが、「基本的に『100%オリジナルの文学』というのは、存在しないものなのだ」と仰っておられたのを読んだことがあるのですが、それは実作者としての恩田さんの実感なのだろうな、と思います。オリジナリティの高い作品を書こうとすればするほど、「オリジナリティの壁」を感じずにはいられないのではないかと。
 この本に収められている講演のなかで、清水さんは、『ロビンソン・クルーソー』と『ガリヴァー旅行記』について、こんな話をされています。

 たとえば、よく読まれている少年文学だからご存じの方も多いかもしれませんが、無人島で暮らす『ロビンソン・クルーソー』のお話がありますよね。無人島に流れ着いて28年間ひとりで生きる男。最後の最後にちょっとだけフライデーという男が出てきますけど。
 そして、もう一つ有名な、難破して島に流れ着く小説に『ガリヴァー旅行記』があります。島へ着いてみたら、人間の十分の一の小人の国で、体中をロープで縛られたり、戦争に巻き込まれたりと、いろいろある冒険の物語です。どちらも非常によく知られたイギリス文学ですが、『ロビンソン・クルーソー』が書かれたのが1719年、その7年後に英語で書かれていますから、イギリス文学といって間違いじゃないですが、正確に言うとアイルランドに住んでいたスウィフトという作家が書いた小説が『ガリヴァー旅行記』です。
 これはあまり知られてないことですが、『ガリヴァー旅行記』は、じつは『ロビンソン・クルーソー』のパロディとして書かれたのです。いや、ちょっとパロディとは違うかもしれない。すごく気に入ったからまねして書いたというよりも、むちゃくちゃ腹が立ったから喧嘩を売るために書いたんです。そういうつながりだと私は思っています。

(中略)

 その『ガリヴァー旅行記』のいちばん最後の章に「さて、ここまでいろいろ我輩の冒険を読んでもらったが」というふうな終わりのセリフのようなのが書いてあって、「ところで我輩はここに紹介した国々に皆さんが行って領土にして、植民地にすることをおすすめしない」と書いてあるんですね。そこがデフォーに対する痛烈な喧嘩腰のセリフで、そこを読むと面白いわけです。「なぜなら植民地支配というのは武器をもっていないところへ鉄砲をもっていって族長を殺して、女を犯して、全員つかまえて財宝を全部盗んでくることだからである」と書いてあります。つまりそれが『ロビンソン・クルーソー』の思想だろう。おれはそれを認めない、という宣言のようなところがある。

 この話に関しては、スウィフトが当時イギリスの統治下にあったアイルランド在住で、イギリスの支配に対して反感を抱いていた、という背景があるそうなのですが(詳細は、ぜひこの本を直接読んでみてください)、こんなふうに「同世代の文学」に影響された作品というのは、けっして少ないないんですよね。そういう「関係性」みたいなのは、後世の人間にはすっかり忘れられてしまうのですけど、当時この2つの作品を読んだ人たちは、「スウィフトがデフォーに噛み付いている」ことがよくわかったはずです。

 この本を読んでいると、清水さんの文学史への造詣の深さに脱帽してしまうのと同時に、やっぱり「古典」を読まなくてはなあ、と感じます。ゾラ『居酒屋』なんて、歴史の教科書でタイトルを見たことがあるだけの「化石」のような本なのに、この本で清水さんが紹介されているあらすじを読んでみると、「今読んでも、十分面白い大河小説なんじゃないか」とワクワクしてしまいますし。僕は、中学時代に『チボー家の人々』に挫折し、『失われた時を求めて』はすっかり本棚の飾りになってしまっている人間なのですが、逆に、今くらい「読書慣れ」していれば、古典も面白く読めそうな気がするのです。
 いろんな作家が書かれているものを読むと、プロになる人の多くは、「あまり現代の日本人が読まないようなジャンルの本や小説」を読んでいるんですよね。「現代の日本の流行小説」をたくさん読み漁っても、「創作」という観点でみれば、結局「人と同じようなもの」しか書けないのかな、とも思いますし。

 いまから120年前に、フランスの詩人ネルヴァルというひとが『アンジェリック』という作品の末尾でつぎのような問答体を書いています。それは文学は模倣によってつながっているということを言いたい部分で、その引用を最後にひいてみます。

――君は他ならぬディドロの模倣をした。
――彼はスターンの模倣をしたのだ……
――スターンはスウィフトを模倣した。
――スウィフトはラブレーを模倣した。
――ラブレーはメルリヌス・コッカイウスを模倣したし……
――コッカイウスはペトロニウスを模倣した……
――ペトロニウスルキアノスを模倣した。そしてルキアノスも、たくさんの人の模倣をした……。いいじゃないか、とどのつまりが、あの「オデュッセイア」の作者(ホメーロス)だということになっても。

 多くの人間が好む「物語」のパターンというのは、実は、有史以来そんなに変わってはいないのかもしれません。本を読むのが好きな人はもちろんなのですが、何かを自分で書いてみたいと考えている人には、ぜひ一度読んでみていただきたい本です。
 清水さんの『私が決める世界十大小説』も、なかなか興味深いですよ(僕はそのうちの2つしか読んだことなかったですけど)。

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