琥珀色の戯言

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異邦人 ☆☆☆☆


異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

あらすじ:アルジェリアのアルジェに暮らす、主人公ムルソーのもとに、彼の母の死を知らせる電報が養老院から届く。母の葬式に参加したムルソーは涙を流すどころか、特に感情を示さなかった。彼は葬式に参加した後の休みの期間中、遊びに出かけたまたま出会った旧知の女性と情事にふけるなど、普段と変わらない生活を送る。ある晩、友人レエモンのトラブルに巻き込まれ、アラブ人を射殺してしまう。ムルソーは逮捕され、裁判にかけられることになった。裁判では人間味のかけらもない冷酷な人間であると証言される。彼の母親が死んでからの普段と変わらない行動は無関心・無感情と人々から取られたのだ……

きょう、ママンが死んだ。

この有名な書き出しではじまるカミュの代表作。
かなり古い小説(1942年発表)+外国が舞台なので、けっして読みやすくはないですし、かなり字が詰まっているので、文庫の薄さのわりには読むのに時間がかかりました。僕にとっては、今回がはじめての通読。
『異邦人』についての僕の知識は、この書き出しと「太陽が黄色かったから、人を殺した」という、とんでもない「殺人の理由」しかなかったのですけど、今回この小説を読んでみると、この作品の本当のすごさは、「母親が死んだこと」でも、「ヘンな理由で人を殺したこと」でもなくて、カミュという作家が、今から半世紀以上も前に、「この世界で生きているはずなのに、『現実感』を持てない人間」の姿を徹底的に描き出したことなのだということがよくわかりました。
逆に、今この作品を読んでみると、ずっと養老院に入れていた母親の死に対して無感情であったこととか、葬式のあとに遊び歩いていること、とくに大きな覚悟も決意もなく、「行きがかり上」人を殺してしまったことなどの「ムルソーのひとでなしっぷり」は、僕にとって全く不自然なものではないんですよね。
こういう「自分の身の回りのことすら、他人事のように感じられてしまう」感覚というのは、今の社会に生きている多くの人が持っているものなのではないかと考えずにはいられません。むしろ、それが「冷酷」だと責められ、裁判での量刑に影響してしまうような世の中のほうが怖いようにも感じられるのです。
何年間も「養老院」に入れっぱなしで面会もしていなかった親の訃報を聞いて、いきなり号泣してしまうような「人間らしい感情」のほうが、僕にとっては「非現実的」で「演技的」。

この文庫の巻末の「解説」で、白井浩司さんは、カミュ自身が『異邦人』の英語版に寄せた自序(1955年1月)を紹介されています。

「……母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう……」

実際のところ、この作品の発表から半世紀以上が経過した現代の日本でも「KY」なんて言葉が流行語になっており、「お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるほかはない」のです。本当はみんな「悲しいから泣いている」のではなくて、意識的に、あるいは無意識的に「悲しんでおくべきシチュエーションだと判断したから泣いている」だけなのかもしれないのに。

この作品を読んで、僕は自分のなかに「ムルソー的な現実感の無さ」を感じましたし、その一方で、「ムルソーみたいな『非人間的な』人間に対する嫌悪」もありました。
半世紀で人間を取り巻く環境はものすごく変わってきたけれど、人間そのものは、そんなに急に変われるものじゃない。
ムルソーのような「率直さ」は、やはり、「自分が常識的に生きていること」に疑問を持たない(持てない)人たちにとっては、理解できない「異物」なのでしょう。

そういえば、『異邦人』を読みながら、『スカイ・クロラ』の「キルドレ」たちって、なんだかすごく「ムルソー的」だと僕は感じたんですよ。
「無関心」「無感情」という「自分の心の動きに素直な人間」と「人間ならそこで悲しむべきだ」という「常識的な人間」たちとのせめぎあいの構図というのは、『異邦人』から50年経っても、まだまだ終わる気配すらないようです。

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