- 作者: 森達也
- 出版社/メーカー: 角川グループパブリッシング
- 発売日: 2008/09/25
- メディア: 文庫
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「公正中立」な視点という共同幻想に支えられながら、撮り手の主観と作為から逃れられないドキュメンタリーの虚構性と魅力とは何か?情報が「正義」と「悪」にわかりやすく二元論化され、安易な結論へと導かれる現代メディア社会の中で、ドキュメンタリーを作る覚悟と表現することの意味を考察したエッセイ。自らの製作体験や話題の作品を分析しつつ、自問と煩悶の末に浮き彫りにした思考の軌跡。
(「ドキュメンタリーは噓をつく」(草思社 2005年刊)の改題)
なかなかインパクトがあるタイトルのこのエッセイ、僕は著者の森さんが『死刑』という本で最近話題になっている、という予備知識しかない状態で読みました。
多くの人にとって、「ドキュメンタリー」への見方が劇的に変わるのではないかと思われる良書なのですが、その一方で、ある程度の問題意識とか「森達也、あるいはドキュメンタリーというものへの興味」がない人にとっては、「なんか難しいことが延々と語られている本」でしかないのかもしれません。
僕はこうしてブログを書いていて、「公正中立な視点というのがありえるのか?」と考えることが多かったので、この本での森さんの考え方はすごく参考になりましたし、僕たちが「ドキュメンタリー」だと思い込んでいるものの「正体」を見せつけられたようにも感じたのです。
ドキュメンタリーだけではない。映像はすべて作為の産物だ。ストレートニュースで紹介される10秒間の悲惨な交通事故の現場でも、道路脇に供えられた花から撮るか、傍らと疾走するトラックから撮るかで、映像の印象はまったく変わる。これを決めるのは撮る側の主観なのだ。
しかしその偏りを自覚しながら、つねに中立な位置を標榜し公正さを自らに問い続けることを、まったく無意味なことと断言することは早計だろう。絶対的な中立地点を確定することなど神でないかぎり不可能だが、少なくともジャーナリズムという分野において、自らが知覚しうる限りの公正さを担保として呈示する姿勢を、欺瞞として切り捨てるつもりは僕にはない。到達は無理でも目指すべきとは思っている。
ただし、ドキュメンタリーにも同様の公正さや中立さを求めるのなら、それは実に浅薄な勘違いだ。なぜならドキュメンタリーというジャンルは、徹頭徹尾、表現行為そのものなのだ。公正なピカソの絵や中立なベートーヴェンの交響曲を想像してほしい。誰がそんな作品に触れたいと思うだろう。
ところがテレビメディアにおいては、この水と油のはずのジャーナリズム(報道)とドキュメンタリー(表現)を、同一視する人は数多い。僕自身もかつてはそうだった。自分のジャンルは報道系とドキュメンタリーですと、何の迷いもなく公言していた。もちろん、両立が絶対に無理とは断定できない。しかし言ってみれば、使う筋肉が全然違うのだ。長距離走と水泳くらい違う。トライアスロンという競技がある? そりゃあるさ。ただし、使う筋肉が違えばそれぞれの記録は落ちる。当たり前の話だ。
現在の「ドキュメンタリー」の最大の問題点は、制作側も受け手の側も、「ドキュメンタリーは公正中立なものでなくてはならない」と考えていること(そして、「公正中立なものだと錯覚していること)にあるのではないか、ということを考えずにはいられないエッセイです。
世の中に人の手が加わっているもので「公正中立なもの」なんて存在しないんですよね。
「ただ他のサイトの内容を紹介するだけ」だと考えられがちな「ニュースサイト」が、その「紹介する順番」や星の数ほどあるサイトのなかの「どれを紹介するか」には大きな「主観」(あるいは「個性」)があるのと同様に、社会科の歴史年表にだって、編者の「好み」というか、「どんな歴史的な事件を年表に載せる価値があると考えるのか」という「主観」から逃れることはできないのです。
森さんは、NY同時多発テロ事件に関して、
ビルに激突する旅客機の映像を呈示するのがメディア報道なら、ハイジャック犯たちのその瞬間の心情を想像する作業がドキュメンタリーの仕事なのだ。
と書かれています。
森さんの「ドキュメンタリー」に対する姿勢は、「自分という主観を通していることを認めること」と「世間からは黙殺、あるいは無視されている人間の立場に目を向け、彼らの声に耳を傾けること」だと僕は感じました。
でも、森さんは「自分の興味・名声のために、ハイジャック犯に人々が共感してしまうような見方を呈示してしまう人」でもあるんですよね。オウムに取材した『A』『A2』という森さんの作品に関しては、「オウムのプロパガンダ映画だ」という攻撃もかなりあったようです。
僕はこの本を読んでいるときは森さんの立場に近いところにいますから、「そんなのは偏見だ、作品を観てみろ!」と言いたくなるのですが、サリンの被害に苦しんでいる人たちからすれば、「普通の人と変わらない、オウム信者の一面」というのは、けっして「救い」にはなりません。もちろん、ハイジャック犯の心情を想像することも、テロの犠牲者を救うことにはならないでしょう。観客にとっては、「彼らも同じ人間なんだ」と感じることは「安心感」につながるのでしょうけど。
森さんの作品は素晴らしいけれど、それも、あくまでも「ひとつの主観」であることを忘れてはならないと思います。
もちろん、森さんも僕たちが「信者」になることを望んではいないはず。
読むのに少し気合を入れなければならない本ですが、「ドキュメンタリーに興味がある人」、そして、「ブログで何かを他人に伝えたいと思っている人」にオススメします。
- 作者: 森達也
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2002/09
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