琥珀色の戯言

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【読書感想】赤めだか ☆☆☆☆☆


赤めだか (扶桑社文庫)

赤めだか (扶桑社文庫)


Kindle版もあります。

赤めだか (扶桑社BOOKS文庫)

赤めだか (扶桑社BOOKS文庫)

”サラリーマンより楽だと思った。とんでもない、誤算だった。立川談春、17歳で天才・談志に入門。笑って泣いて胸に沁みる、「家族以上」の師弟関係。そして強く立つことを教えてくれる。落語家前座生活を綴った、破天荒な名随筆、ついに発売。”


「談志の言葉」(てれびのスキマ(2008/10/7))
僕は↑のエントリを読んでこの本のことを知ったのですが、評判に違わず素晴らしい「ひとりの若者の成長物語」であり「芸の世界の厳しさと優しさを描いた作品」だったと思います。
さまざまなブログの書評や感想などで紹介されつくしている印象もある本なのですが、僕がこの本を読んで最も感じたのは、「立川談志の『教える人』としての合理性」だったんですよね。破天荒な言動で知られている談志師匠ですが、自分の「弟子」への「芸」の指導に関しては、すごく真摯な人だったのだなあ、と思います。

(談志師匠に「道灌」「狸」という落語のネタの稽古をつけてもらった際に「型ができてない者が芝居をすると型なしになる。メチャクチャだ。型がしっかりとした奴がオリジナリティを押し出せば型破りになれる」(だから、まずは稽古をして型をつくることが大事なんだ)、と指導だれたことを振り返って)

 現在の自分がこのエピソードを振り返って感じる立川談志の凄さは、次の一点に尽きる。
 相手の進歩に合わせながら教える。
 掛け算しかできない者に高等数学を教えても意味がないということに、僕は頭ではわかっていても身体が反応しない。教える側がいずれは通る道なのだから今のうちからと伝えることは、教えられる方には決して親切なこととは云いきれない、ということを僕は弟子を持ってみて感じた。混乱するだけなのだ。学ぶ楽しさ、師に褒められる喜びを知ることが第一歩で、気長に待つ、自主性を重んじるなど、お題目はいくらでもつくが、それを実行できる人を名コーチと云うのだろう。
 しかし、こっちは教えることが商売じゃない、とも云える。一生かけて、芸人を志す覚悟を本気で持っているなら、それくらいの師のわがままをクリアしてこいと叫ぶ自分もいる。
「先へ、次へと何かをつかもうとする人生を歩まない奴もいる。俺はそれを否定しない。芸人としての姿勢を考えれば正しいとは思わんがな。つつがなく生きる、ということに一生を費やすことを間違いだと誰が云えるんだ」
「やるなと云っても、やる奴はやる。やれと云ったところでやらん奴はやらん」
 弟子を集めて談志はよくこう語る。そして最後につけ加える。
「まア、ゆっくり生きろ」
 そう云われることに恐怖を感じ、そんなまとめ方で話を終えられる談志に疑問を持った。やらなきゃクビだ、と脅してでも前に進ませるべきではないのか。本当は弟子は皆、上手くなってほしい、売れてほしいと思っているはずで、それが証拠に行動しない弟子達を、
「落語家になった、談志の弟子になれたということで満足している奴等ばかりだ。俺はライセンス屋じゃねェ」
 と云っているのだから。

 立川流においては創設当時から二ツ目になる基準が明確にある。
 古典落語の持ち根多を五十席、前座の必修科目である寄席で使う鳴り物を一通り打てること、歌舞音曲を理解していること、講談の修羅場を読めるための基本的な技術を積み理解すること、であった。それらの全てを談志が聴いて判断する、というものである。
 立川談志というカリスマを納得させれば二ツ目になれる、そのクリアしなければいけない科目は明確に示してある。

 前者のエピソードを読むと、超一流の教育者である談志師匠が、その一方で、「他人を教えること」に対する戸惑いや照れを隠せないというのが伝わってきます。
 そして僕が談志師匠の凄さをもっとも感じたのが後者の「二ツ目になるための基準が明示してあること」でした。
 これがペーパーテストなら「○○点以上が合格」というふうにアナウンスされているのが「当然」なのですが、芸の世界でこれだけ明確な「合格基準」を公開しているケースは、ほとんど無いと思います。最終的には、「談志師匠が納得するかどうか」なのですが、それにしても、年功序列で「じゃあそろそろ……」あるいは、上司のウケのよさだけで「引き上げられる」のを期待して、日々「稽古に励む」ことに比べたら、これははるかに「合理的」で「努力するポイントがわかりやすい」ですよね。
 談志師匠が落語協会を脱退した理由が、「自信を持って送り出した弟子が、昇進試験で落とされたこと」だったという背景があるにせよ、こういう「成文法」をつくるというのは、芸の世界では「革命」だったはず。
 僕も以前後輩を「指導」する立場になったことがあるのですが、これを読んでいて本当に耳が痛くなりました。
 あの頃の僕は、まぎれもなく、「掛け算しかできない者に高等数学を教えようとして、できないと相手の『やる気のなさ』を責めていた」し、「相手がいまクリアすべき課題は何か、ということを明確に示してあげていなかったのに、ただ『がんばれ、進歩しろ』とばかり追い詰めていた」と思うのです。
 僕は未経験なのですが、「子育て」にも、参考になる話なのではないかと。
 いまの世の中は、「型」もできていない人間に「自主性」とか「自分らしさ」を出すことばかりを要求して、「責任逃れ」をしているようにも感じます。

 ただ、この本のなかで、談春師匠は、談志師匠の「揺らぎ」についても率直に語っています。
 談春師匠が中学時代に学校の落語を「聴きに行く」という企画で、同級生たちと寄席に行った際、談志師匠はこんなことを云っていたそうです。

「落語はね、この(赤穂藩の四十七士以外の)逃げちゃった奴等が主人公なんだ。人間は寝ちゃいけない状況でも、眠きゃ寝る。酒を飲んじゃいけないと、わかっていてもついつい飲んじゃう。夏休みの宿題は計画的にやった方があとで楽だとわかっていても、そうはいかない、八月末になって家族中が慌てだす。それを認めてやるのが落語だ。客席にいる周りの大人をよく見てみろ。昼間からこんなところで油を売ってるなんてロクなもんじゃねェヨ。でもな努力して皆偉くなるんなら誰も苦労はしない。努力したけど偉くならないから寄席に来てるんだ。『落語とは人間の業の肯定である』。よく覚えときな。教師なんてほとんど馬鹿なんだから、こんなことは教えねェだろうう。嫌なことがあったら、たまには落語を聴きに来いや。あんまり聴きすぎると無気力な大人になっちまうからそれも気をつけな」

 まさにこの「頭ではわかっていても、『正しいこと』ができない人間の業」を体現しているのが、立川談志なのではないかな、と。
 ものすごく頭がいい人で、どうすればいいかは自分でよくわかっていても、いざその場に立ってみると、その通りにはできないもどかしさ。
 そして、そういう姿こそが、談志師匠の「矛盾」に呆れながらも、人の心を惹きつける魅力なのでしょう。

 談春師匠が競艇で大勝負しようとして「なかなか賭けられなかった話」や「談志師匠と柳家小さん師匠の話」など、ぜひ読んでみていただきたいエピソードばかりの本です。
 読めば読むほど「落語を聴いてみたくなる」そんな一冊。


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