琥珀色の戯言

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ヒシアケボノが差されたマイルCSの思い出


 あれは僕の大学時代が終わろうとしていた1995年の秋のことだった。
 僕は1995年のマイルチャンピオンシップを、当時お気に入りだった後輩女子と二人で、秋風が舞う某地方競馬場で観ていた。どんなキッカケでそういうシチュエーションになったのかは、もう覚えていないのだけれども、二人っきりでどこかに行ったのは、あれが初めてだったと思う。

 僕は前哨戦のスワンSを圧勝した2番人気のヒシアケボノから手広く流した馬券を手に握りしめ、彼女はギャンブルというものにはあまり興味が湧かないのだ、と言いながら、自動販売機の缶コーヒーで両手で温めていた。
 当時、僕たちは顔を合わせれば親しく嫌味を言い合うような先輩・後輩だったのだけれど、この日はなんとなくお互いに言葉が見つからず、逃げ馬がそのままゴールまで押し切ってばかりの地方競馬らしいレースを眺め、馬券オヤジたちが百円券を握り締めて奏でるヤジと歓声のハーモニーを何度か聞きながら、間もなくターフビジョンで放映されるマイルCSの発走を待っていた。

 僕はヒシアケボノから買った馬券にすごく自信があったし、ここでカッコよく当てて、彼女にちょっと豪華なディナーでも御馳走してあげようかな、なんてことを考えながら、G1のファンファーレを聴いていた。あのスワンステークスの内容なら、200m延びても、ヒシアケボノは連を外さない。

 ゲートイン直前で、張り詰めた雰囲気のスタンド。そんななか、ひとりの酒臭いオヤジが、こんな言葉を大声で吐いた。
「ケッ、バカバカしい。このレース、どうせ13−18だよ、13−18、当たるかそんなの、ボケ」
 白い帽子のヒシアケボノは1枠1番だったので僕は内心ムッとしていたのだが、まあ、酔っ払いのたわごとだと聞き流すことにした。競馬場には、こういう人がよくいるのだ、そもそも、18番ってどの馬だったっけ?

 レースは、逃げ馬の直後につけたヒシアケボノが直線で大きな体を揺らして堂々と先頭に立ち、まさに「横綱相撲」のはずだった。ところが、残り200mで外から矢のように13番トロットサンダーが伸びてきた。
 まあ、トロットサンダーに差されても、馬券は当たりだからいいや。
 ところが、トロットサンダーと併せ馬をするように一緒に伸びてきた馬がいたのだ。
 18番、メイショウテゾロ。フルゲートの18頭中、16番人気の馬。
 このレースのメイショウテゾロは、ただトロットサンダーとずっと並んで走っていただけだった。
 それが結果的に能力以上の結果をもたらしたのだと思う。
 うわー、なんでお前が来るんだよ、トロットも余計なの連れてくるんじゃねえ!なんとかしのげアケボノ、粘れ粘れゴールはもうすぐだ!頼む頼む頼む、嗚呼……

 ………ヒシアケボノは、最後の最後でメイショウテゾロにも差されて3着になってしまい、馬券は大外れ。馬連104390円の10万馬券。当時としてはかなりの金額をつぎ込んでいた僕は、彼女の前で、ひどく落ち込んでしまったのをよく覚えている。
 気をとりなおして、「ごはんでも食べに行こうか?」と誘ってみたものの、「先輩お金なさそうだし、今日は遠慮しときます」。
 
 結局彼女とは、その後もなんとなく付かず離れずといった関係が続き、いい感じかな?と思っていると、ゴール前に彼女の前にイイオトコがあらわれてさらっていく、ということを何度か繰り返すことになった。
 ずっと趣味が合う友人だったけれど、彼女が就職で地元を離れたこともあり、次第に疎遠になっていった。
 そして、僕は一昨年に結婚した。
 ここ4年くらいは、彼女とは年賀状のやりとりくらい。
 
 今でも、マイルチャンピオンシップの時期になると、毎年このレースのことと、ヒシアケボノが差された瞬間の悔しさと取り乱している自分を彼女に見せてしまった気まずさが去年のことのようによみがえってくる。
 それは、僕のなかでは年々「甘い記憶」に変わってきているようにも思えるのだけれども。

 もしあのとき、ヒシアケボノがせめて2着に残っていれば、僕たちの未来は変わっていたのだろうか?
 あるいは、僕と彼女の「決定的な縁の無さ」みたいなものを、このレースが象徴していたのかもしれない。
 本当は、ヒシアケボノのせいじゃなくて、「僕に勇気がなかったから」なのだろうけどさ。

95年スプリンターズS(GI)を勝ったヒシアケボノ(牡16)が19日、病気のため栃木県のJRA競走馬総合研究所において死亡したことが、JRAより発表された。同馬は茨城県東京大学農学部付属牧場で繋養されていたが、1か月前より体調を崩し、一昨日に検査のためJRA競走馬総合研究所に移送されていた。

 同馬は父Woodman、母Mysteries(その父Seattle Slew)という血統の米国産馬。半弟に99年アベイユドロンシャン賞(仏G1)、00年ジュライC(英G1)などを勝ったアグネスワールド(父Danzig)がいる。

 94年11月にデビュー。初勝利まで6戦を要したが、そこから4連勝でオープン入りすると、95年スワンS(GII)をレコードタイムで制して重賞初制覇。暮れのスプリンターズ(GI)を快勝して、同年のJRA最優秀短距離馬に選出された。その後も96年高松宮杯(GI)、安田記念(GI)で3着に入るなど短距離戦線で活躍した。通算成績30戦6勝(うち地方1戦0勝、重賞2勝)。

 引退後は種牡馬入りしたが、目立った産駒は出せず、07年8月に千葉県のJBBA日本軽種馬協会下総種馬場から東京大学農学部付属牧場に移動していた。

佐山優調教師(現役時の管理調教師)のコメント】
「体が大きな馬でしたが、気持ちが優しくて、とても可愛い目をした馬でした。体も丈夫で手のかからない本当に可愛い馬でした。アメリカの1歳馬のセールではじめて見たときから体が大きく、とても目立っていたことを思い出します。亡くなったのは突然で驚きましたが、重賞に手が届くまでいろいろとあり、思い出すことがたくさんあります。ご冥福をお祈りします」

 サラブレッドとしては平均よりだいぶ長生きし、G1もひとつだけ勝ったけれど、種牡馬としてはほとんど活躍できなかったヒシアケボノ
 負けたレースで申し訳ないんだけど、僕はあの直線で情けなくメイショウテゾロに差されてしまったお前のことをずっと忘れないよ、たぶん。ほんと、お前は憎めないヤツだった。
 天国では、だいぶ馬体も絞れているだろうから、連戦連勝だったりして……


 ちなみに、あのオッサンの「予言」が的中したのは、あのオッサンがあらかじめラジオで結果を聞いていたから、だったんですよね。当時の地方競馬では、「地元のレース優先」で、JRAのG1レースは地元のレースの発走後に、少し遅れて放映されることがときどきあったのです。でもなあ、いくら悔しかったからって、みんながワクワクしている放映前に大声で結果言うなよ……


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