琥珀色の戯言

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凍りのくじら ☆☆☆☆☆


凍りのくじら (講談社文庫)

凍りのくじら (講談社文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
藤子・F・不二雄をこよなく愛する、有名カメラマンの父・芦沢光が失踪してから五年。残された病気の母と二人、毀れそうな家族をたったひとりで支えてきた高校生・理帆子の前に、思い掛けず現れた一人の青年・別所あきら。彼の優しさが孤独だった理帆子の心を少しずつ癒していくが、昔の恋人の存在によって事態は思わぬ方向へ進んでしまう…。家族と大切な人との繋がりを鋭い感性で描く“少し不思議”な物語。

この作品、最初のほうは、かなり読むのが辛かったです。
延々と続く自意識過剰な高校生女子の独白、薄っぺらい人間関係、なかなか先に進まない物語。
文庫で500ページをはるかに超える長さでもあり、途中、何度も「もう読むのやめようかな」と思いました。
それでも、この作品に挿入されている『ドラえもん』のエピソードで気を取り直して、なんとか最後までたどり着いたような感じです。
でも、最後まで頑張って読んでよかったよ。
この作品、内容のわりに冗長だと思うし、人物描写にそんなに深みがあるわけでもないし、ストーリーも「どこかで観た映画やマンガを貼り合わせたような」気がするのだけれども、この作品には、そういうのが些細なことに感じられてしまうほど、「藤子・F・不二雄先生の世界」への愛情が詰まっているのです。
藤子先生は、その作品における「SF」の定義を「Sukoshi Fushigi」だと仰っていたそうなのですが、この作品も、まさにその系譜の上にあります。「実際にはそんなことありえない」のですが、「そういうことがあることを心の片隅で信じていたい」そんな物語。
僕はこの作品そのものよりも、「藤子先生の子どもたち」のひとりである辻村さんが、こんなせつなくてやさしくて力強い物語を藤子先生に捧げてくれたということに感激しましたし、単なる「フィクション」であるはずのマンガ(とその登場人物たち)が、ここまで現実を生きる人たちに生きる力を与え続けているのだ、ということが、とても嬉しかったです。
藤子先生は亡くなられてしまったけれども、『ドラえもん』そして、「藤子先生が『ドラえもん』で伝えたかったこと」は確実にこの世の中に息づいていて、藤子先生の「光」に照らされた子どもたちが、自らもその「光」を受け継いで、次の世代の子どもたちを照らそうとしている……

解説を書かれている瀬名秀明さんは、

この物語は、辻村さんの小説の中でも特別な感じがする。

と書かれていました。
僕は辻村さんの作品は初めて読むのですが、それでも、この作品にこめられた「特別な感じ」は理解できたような気がするのです。
それはたぶん、この作品が、「藤子先生への感謝」に溢れているからなのではないかなあ。

「誰も見ていないところで悪いことをしそうになることってあるでしょう? 信号無視だったり、万引きだったり、誰かに嘘を吐くことだったり、バレなければそれでいいんだろうけど、それだとモラルハザードが起こる。一つを自分に許してしまうと、あれよあれよという間に、もっと程度のひどいことを許しちゃう。それってちょっと困るじゃないですか。最初はどうってことなくても、段々と自分で自分が許せなくなるかもしれない」
「うん。それ、よくわかる」
 別所が頷き、私もそれに頷き返す。
「父はそういう時に、誰の顔も思い浮かべることができないんだって。一番最初に思い出すべきはずの両親の顔を思い浮かべるのがまず無理らしいんですね。私の父は婿養子で、私が今住んでいる家は母の実家で――、そのことで祖母と揉めたんだって聞いたことがある。私が物心つく前に、父方の祖父母は両方とも亡くなってるので、私は彼らのこと、ほとんど何も知らないんですけど」
 料理をまた一口。それから水を飲んで続ける。
「母や私の存在についても、『見てないに決まってる』って思うから、そこに関連性を見出すことができない。そういう時、だからいつも『ばかやろう、誰も見てないと思ったって、どっかで藤子先生が見てんだぞ』って思うことにしてるって言ってました。先生に顔向けできるかどうか、自分の胸に問いかけるんだって。君もそうするといいって、勧められたことがあります」

辻村さんは1980年生まれだそうですから、僕より10歳近く若い作家です。
僕がこの作品を読んでみようと思ったのは、以前、辻村さんが書かれていた、こんな文章を読んだことがあるからです。


『ドラえもん』をビデオに録画してくれていた両親(活字中毒R。2007/4/12)


藤子先生、お元気ですか?
生きるのがヘタクソな子どもだった僕たちは、『ドラえもん』に励まされて、なんとかこうやって大人になることができました。
転校直後で友達がうまくできなかったり、体育の時間に失敗してバカにされたり、両親のケンカを目の当たりにしたり……
そんなとき、僕の傍には、いつも『ドラえもん』がいたのです。
僕たちはもういい年なので、普段は『ドラえもん』なんて子どもが観るもんだ、と知らんぷりしてますけど、心のなかには、ずっと『ドラえもん』が住んでいるんですよ。僕はいまでも困ったときに「アンキパンないかな……」とか「もしもボックスがあればなあ……」なんてふと考えてしまいます。
僕もいつか、誰かのドラえもんになれますように。

この「Sugoku Fujikosenseirashii(すごく藤子先生らしい)」物語、『ドラえもん』と『藤子・F・不二雄先生』を愛するすべての人にオススメします。

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