琥珀色の戯言

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おんぶにだっこ ☆☆☆☆☆


おんぶにだっこ

おんぶにだっこ

出版社 / 著者からの内容紹介
まる子以前の日々を綴った書き下ろしエッセイ

王道エッセイ第2弾!「おっぱいをやめた日」、「乳母車からみた景色」、「盗んだビーズ」、「たまちゃんとの出会い」等。爆笑だけじゃない、感動だけでもない。幼年期のまる子を初めて描いた新境地にして最高傑作!

最近、僕のなかで、「さくらももこ再評価」の機運が高まってきていたのです。
さくらさんのエッセイデビュー作『もものかんづめ』を読んだときには、「こんなに『本当に笑えるエッセイ』は読んだことがない!なんてすごい人なんだ!」と感動した記憶があるのですが、あまりに売れすぎてしまったことと、なんだかいつのまにか有名人との交流とか宝石買い漁りのような「セレブ化」が鼻につくようになったことから、一時は敬遠してしまっていたんですよね。
でも、先日読んだ『百年の誤読』での紹介記事を読んで、「あらためてこの人の記憶力と表現力はスゴイ!」と感じたのと、ちょっと前にid:hrkt0115311さんがこの本を紹介されていたエントリ、

この人の記憶は2歳半から始まるのか――『おんぶにだっこ』さくらももこ著 - どんなジレンマ

↑でこの本に惹かれ、あらためて読んでみました。

読んでみての感想。
さくらももこという人の記憶力と覚えていることをうまく言葉にする力の凄さには、僕も驚嘆せざるをえませんでした。
さくらさんの最初の記憶は「2歳半のとき」なのだそうですが、「そんな小さな頃のことを覚えている」のもすごいのですが(余談ですが、三島由起夫には、「お母さんの産道を通ってきたときの記憶がある」という伝説がありますよね。さすがにそれはどうかと思うけど)、さくらさんは、「○○ということがあった」ということを記憶しているのではなく、その「○○ということがあったときに、自分がどういうふうに感じ、考えていたか」というのを「そのままの手触りで覚えている」のです。
幼稚園のとき、小学生のとき、中学生のとき……「実際にあったこと」を覚えている人は多いでしょう。でも、「A子さんを好きになったこと」は記憶にあって、「あの頃はまだ子供だったよなあ」というような「大人になった自分からみた、当時の自分への漠然としたイメージ」は持ち続けていられたとしても、「教室でA子さんと目が会ったときのリアルな感情(それは、嬉しい、だけのものじゃなかったはずなんだけど)」みたいなものって、「思い出そうとしても思い出せない」のですよね。
僕は自分の記憶力にはけっこう自信があるのだけれど、この『おんぶにだっこ』には脱帽しました。
ここに書いてあるのは、「子供からみた子供の世界」そのものであり、さくらさんは「あの頃のあたしは若かったわねー」なんてお茶を濁したりは全くしていません。
もし、あの頃の僕に「ことば」があったなら、こんなことを書いていたはず、と何度も読みながら思いました。

 幼稚園に入園してからすぐ、私は四歳になった。入園してからまだ1ヵ月しか経っていないのに、私はもう幼稚園に飽きていた。
 三歳の頃は暇で暇で、早く幼稚園に行きたいなァと思い、行っている姉がうらやましかった。幼稚園にはたくさん友達もいるし、楽しい遊びもいろいろやれるのだろう。
 親にも「早く幼稚園に行きたいなァ」と、毎日言っていたし、「幼稚園に行ったら、すべり台やブランコをやりたい」と夢も語っていた。
 しかし、実際に入園してみると、ただ遊んでりゃいいっていうもんではなく、みんなで一緒におゆうぎをしたり、歌の練習をしたり、別に見たくもない紙芝居を見せられたりして面倒な事も多かった。
 おゆうぎだなんて、バカバカしくってやってられないと思い、参観会の時に逃げ出したこともあった。なんで親の前で、あんな踊りを踊らなきゃならないのだか。いつもと違う様子の、不自然な自分の姿をほほえんで見ている親の姿にも、いたたまれず逃げ出したのだ。
 逃げて捕まり、「なんでそんな事をしたの」と母に問い詰められたが、理由をうまく説明できず、黙っていた。バカバカしい気がしてやってられないなんて、そんな言葉を知らなかったし、知っていたとしても言えない。
 こんな小さな子供が、そんな事を感じている事自体、大人には信じられないだろうなという気がしていたのだ。「子供のくせに、何言ってんの」と言われるだろうな、という事もわかっていた。

これを読んでいて、「ああ、僕もそんな事を考えていたんだよな、あの頃は」と思ったんですよね。「こんな子供っぽいこと、やってられるかよ!」って。
でも、自分が大人になってみると、そんな事忘れて、「なんでお前は『子供らしくない子供』なんだ!」とか言ってしまう。

このエッセイを読みながら、僕は昔の自分に何度も会ったような気がしましたし(小鳥逃がしたこともあったよな……)、いままで「覚えているんだけど、思い出せなかったこと」をいくつも思い出しました。
子供の頃、僕は「眠ること」が怖かったんですよ。一度寝て意識が途切れてしまうと、もう自分は死んでしまっていて、明日の朝目覚めるのは「姿形も記憶も同じ、別の自分」なのではないかって。死んで、すべてがなくなってしまうのが、本当に怖かったし、「ノストラダムスの大予言」を本気で信じてた。まさかこんな年まで生きて、息子にお風呂でおしっこひっかけられるとは夢にも思わなかったよ。

さくらさんは、「あとがき」に、こんなことを書いておられます。

 次の要素として、人間は、幼い頃はピュアだけど、年月を重ねるに従ってピュアでなくなるのかということを考えてもらいたいという点だ。この作品を書きながら、私はすごくその事を思った。
 幼い頃、私は知らないが故に、いたずらに悩み苦しむことが多かった。人一倍ナイーブだったし、もちろんピュアだったとも思うが、知っていれば解決する問題も多かった。
 人が大人になってゆくというのは、どういう事だろうと私はよく考えてきた。そして、出た答えは、経験をし、その意味に気づき、理解し、理解の中から生まれた知恵を生かしてゆく事、これが大人になってゆくという事だろうと思ったのだ。この答えは今でも変わっていない。
 だから「大人は汚い」とか「汚れてゆく」とか言う人の話をきくと、そういうもんじゃないと思うけどなァ…と思っていた。
 ひとつひとつの経験の中で、いろいろな意味に気づき、それについて悩み、苦しみ、そして理解をし、そこから生まれた知恵を次につなげて成長してゆく事が、汚れているだろうか。理解から生まれた知恵は美しい。熟練し、洗練された魂で生きている人は本当にすばらしい。生まれたままの幼い子供よりピュアだと思う。

いままでのさくらさんの「爆笑エッセイ」に比べると「笑える要素」は少ないです。そこに物足りなさを感じる人は多いに違いありません。
でも、僕はこの本、これから「親」をやっていくうえで、すごく読んでよかったな、と感じています。
僕はこの年になって、ようやく少し「生きやすくなった」ような気がするのです。
そして、「なんでもないっ!」って走って去っていく子供には、そうしなければならない「理由」がちゃんとあったということも思い出せたから。

「しょうがないよ、子供なんだから」というのは、大人の怠惰なのかもしれません。
記憶のなかに、「答え」はきっとあるはず。

それにしても、こんなに記憶力が良すぎる人は、生きていくのが大変なのではないかなあ……

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