琥珀色の戯言

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「歴史」という物語


あなたは、「村上スピーチ」の何が素晴らしいと言っているのですか?
↑のエントリに対して、こんなコメントがありました(この人のブログはアフィリエイトだけみたいなので、クリックしないほうが良さそう)。

青島 2009/02/22 21:22
100年後を考えてみなさい。あのスピーチは消えて、受賞者として名前しか残っていないことを。みなさん、自分の物語に酔っているだけ。藤田嗣治は、戦争画を書いたことで、フランスの社交界では追放された。それに、あの戦争画は傑作なのだけど、日本では誰にも知られてはまずいような扱い。まさに、空疎なスピーチだし、愚かな行為でしかありません。何を言ったかでありません、何をしたかです。老人が水戸黄門のドラマを喜んでいるのと何も代わりがありません。カッコ悪い。


先日、『カンブリア宮殿』の本を読んでいたら、ある社長さんが、こんなことを言っていました(要約です)。

硫黄島で最後まで徹底抗戦した軍人たちのおかげで、アメリカ人たちは「日本は侮れない」という印象を持つようになった。
彼らは(ほぼ)全滅してしまったけれど、それはけっして「無駄死に」じゃなかったし、いまの日本人は彼らに感謝すべきだと思う。

僕は学生時代、歴史が大好きだったのだけれども、高校時代に授業中に読んでいた「世界史資料集」で読んだ「テルモピレーの戦い」は、非常に印象に残っています(Wikipediaの記述はこちら)。

テルモピュライの戦いは、ペルシア戦争における戦いの一つ。紀元前480年、テルモピュライで、スパルタを中心とするギリシア軍とアケメネス朝ペルシアの遠征軍の間で行われた戦闘である。「テルモピレーの戦い」とも呼ばれる。ヘロドトスの『歴史』(第7巻)に記述される。
レオニダス王以下300のスパルタ精兵と、700のテスピアイの兵士たちは、10万の兵力を擁するペルシャ軍の投降勧告にも応ぜず、最後まで踏みとどまり、一兵となるまで戦い、遂に全員が玉砕してしまう。

この「テルモピレーの戦い」は、『300』という映画のモチーフとなっており、映画を観た人もけっこういるんじゃないかな。
この映画のラストで、ペルシアの大軍に立ち向かうギリシア連合軍を「テルモピレーの生き残り」の勇士が、こんなふうに励ますのです。
「たった300人で、ペルシャの大軍勢に立ち向かった勇者たちが、このギリシアにはいたのだ。お前たちも勇気を出せ!」

数字だけで言えば、レオニダス王以下300人のスパルタ兵たちは、「大軍に無謀な戦いを仕掛けて犬死にした愚か者」でしかありません。
彼らは実際に「全滅」したのだし。

でも、彼らが寡勢でみせた矜持は、彼らの「物語」に触れた人々を動かしたのではないかと僕は想像しています。

あの村上さんのスピーチに対して、青島さんは「100年後を考えてみなさい。あのスピーチは消えて、受賞者として名前しか残っていないことを」と書かれていますが、たしかにそうなるかもしれません。
もちろん、僕はそうは思わないのだけれども。
僕は、「エルサレム賞なんていう賞やその受賞者リストはみんなの記憶から消えて、村上春樹という固有名詞をみんな忘れてしまっても、『あの時代のイスラエルという国で、システムに対する個人の向き合いかたを訴えた小説家がいた』ということが、「物語」として語り継がれるのではないか、という気がしているのです。
そして、その物語が、後世の人たちの心を少しずつでも揺り動かしていくといいなあ、と。

ただし、こういう「物語」っていうのは、必ずしもプラスの方向にばかり働くとも限りません。
政治をやる人たちは、「物語」を利用して、人々の心を自分の都合の良いように動かそうとしますしね。
戦時下の日本での「軍神」というのは、まさにそういう「物語」なのだろうし。

「歴史」という物語のおかげで、いろんなものがエスカレートしていくこともあります。
もし硫黄島で日本軍がアメリカを恐れさせなかったら、アメリカは原爆を落とさなかったかもしれない。
そもそも、何万人もの人が死んで得られた「物語」に、その命に見合った価値があるのだろうか?

結局のところ、物語、とくに「歴史」という政治的な物語の価値を決めるのは、「勝者」であることも事実です。
藤田嗣治は、もし日本が戦争に勝って世界の支配者になっていたら、「フランスの社交界から追放されてまで、日本のために戦争画を描いた英雄」になっていた可能性もあります。
突き詰めれば、藤田嗣治が「間違っていた」のは、「戦争画を描いたこと」ではなく、「戦争画を(あの時代に)描いたこと」であり、「今後の歴史の流れに対する読みを誤っていたこと」なのかもしれません。
テルモピレーの戦いだって、結果的にギリシアがペルシアを撃退したから「価値」があるのかもしれない。

それでも、あの村上さんのスピーチには「歴史」としての価値があると僕は思っています。
歴史年表に載るような話ではないけれども、この時代に「極東のひとりの小説家が歴史に問いかけた物語」として。
それは、「平和と個人の尊厳に価値を置く社会」では称賛され、「集団の力で生き延びることを是とする社会」では、「妄言」として蔑まれるものでしょう。
だからといって、歴史に問うことそのものを「空疎だ」「愚かだ」と開き直ってしまうような人間に、僕はなりたくない。
村上さんは、「小説家として作品を描くだけでは伝わらないもの」「興味を持ってくれない人」に向かって、あの言葉を投げかけたのだろうから(とはいえ、小説家としての村上春樹を知らない人にとっては、ちょっと理解するのは難しかったかもしれません)。

小学生にはむずかしい文章(内田樹の研究室)
↑を読みながら、僕は考えていたんですよね。
「歴史」っていうのは、長い目でみればみるほど、なんだかわけわかんなくなっちゃうよな、って。
「どんな環境やどんな社会情勢でも共通して称賛されるもの」って、存在しうるのだろうか?
(美味しい料理、とか美しい音楽だけには、そういう可能性があるかも)
でも、「問いかけること」をやめちゃったら、その時点でおしまいなのではないか、と僕は思うのです。
村上さんは、「やりたいこと」「やるべきこと」をやっただけなのかもしれませんけど。

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