琥珀色の戯言

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イスラエル ☆☆☆☆


イスラエル (岩波新書)

イスラエル (岩波新書)

内容(「MARC」データベースより)
イスラエルはいま、「ユダヤ国家」という理念と多文化化・多民族化する現実とのはざまで切り裂かれ、国家像をめぐって分裂状態にある。なぜそうした苦悩を抱え込んだのか。現代史の諸局面をたどり、イスラエルの光と影を描く。

村上春樹さんの「エルサレム賞」受賞以来、僕はイスラエルという国について、もっと知りたいと思っていました。
とはいえ、専門書を読むまでには至らない状態だったのですが、書店でこの『イスラエル』を見つけて読んでみたのです。

この本、新書とはいえ岩波なので、けっして「読みやすい本」ではありません、人名に馴染みが薄いこともあり、読みながら、「ペレス」と「ペレツ」に頭がこんがらがったり、日本以上に集合離散を繰り返す政党の流れを追っていくだけで、かなりくたびれてしまいました。
基本的にドラマ仕立ての「紀伝体」ではなくて、時系列の「編年体」で書かれていることもあり、本当に「教科書的」な印象です。
学生時代から「歴史大好き」な僕も正直辛かったので、某○木○之さんと●山●カさんの本のような、「雑談を垂れ流している新書」を読むときのような軽い気持ちで読み始めると、読んでも読んでも先に進まずに後悔するかもしれません。

ただ、そういう「生真面目」な本であるからこそ、「イスラエルという国を知るための入門編」としては、よくまとまった良書ではないかと思うのです。「著者の感想」を極力排しているのも、デリケートな問題をはらんでいる国だからなのでしょう。

この本を読んで、僕は「シオニストたちがつくり、アメリカがサポートしている好戦的で過激な愛国者のユダヤ人国家」だというイスラエルのイメージが、けっこう変わったんですよね。
シオニズムという理念によって、一枚岩になっている」と思っていたイスラエルは、同じ「ユダヤ人」でも、アシュケナジーム(欧米系ユダヤ人全般)とスファラディーム(非欧米系ユダヤ人全般)のあいだにさまざまな「格差」があり、もちろん、イスラエル国籍を持つアラブ人たちとの確執は絶えません。
 そして、宗教的にも必ずしも「一枚岩」ではないのです。

 例えば、超正統派ユダヤ教徒に属する一家が集合住宅に入居すると、そのアパートからは次第に世俗的なユダヤ人は出て行って、いつのまにか超正統派ばかりになってしまう。というのも、この人びとはユダヤ教の教えに文字通り忠実だからである。金曜日の日没から始まる安息日(シャバト)にはいっさいの労働を禁止されているので、彼らの住む地区で自動車を運転することもまかりならず、不届き者が車でこの地域に入ってこようものなら、凄まじい抗議を行い、挙句の果てに実力で車の乗り入れを阻止してしまうこともあるからである。居住区地域にバリケードを作って車が入れないようにしてしまったりして、警官隊と衝突したりするニュースが流れることもしばしばある。
 エルサレムの超正統派ユダヤ教徒たちの住む居住区は、一見すると18世紀東欧のシュテットル(ユダヤ人居住区)の雰囲気を彷彿させ、郷愁を誘う古いたたずまいを残している。東欧・ロシアからこの地に移民してきたときの生活を維持しているからである。敬虔な男性は信仰のために生活のすべてを捧げて神への祈りに専心し、その妻が働いて家計を支えている場合が少なくない。また子供の数も多い。だからこそ、ユダヤ教信仰をまっとうするには、政府からの補助金は不可欠なのである。
 ところが、このような信仰に篤い超正統派ユダヤ教徒の人びとは、イスラエル国民に課せられている男子約3年間の兵役の義務も免除され、女性の信徒は兵役の代替として社会福祉などに従事すればいいことになっているために、この信徒集団に対する一般のユダヤ系イスラエル国民の風当たりは相当に強い。もちろん、イスラエル人口の2割強しかいないといわれる超正統派ユダヤ教徒を、イスラエル社会の代表とみなすことができないのは当然である。

 ちなみに、この「超正統派ユダヤ教徒の拠点としては、アメリカのニューヨークがあり、超正統派のネットワークでイスラエルとアメリカはつながっている」のだそうです。
 しかし、ここには「2割しかいない」と書かれていますが、こういう人口が2割もいるなかで国家を運営していくのは、すごく大変なことではないかと思われます。
 一般のユダヤ人からすれば、働かない、兵役にもつかない、政府からの補助金で生活しているにもかかわらず、「ユダヤ教徒としては正しい生活を送っている」と誇りを持っている彼らに好感を抱くことは、なかなか難しいはず。「偉そうなことばかり言ってるけど、お前らを食べさせてやってるのは俺たちだろ!」と言いたくもなるはずです。

 そして、ナチスによる「ホロコースト」に対するイスラエルという国のスタンスにも驚かされました。

 イスラエルでは、イスラエル建国がホロコーストの悲劇と直接結びつけられて語られてきた。実際、独立宣言の中にもホロコーストへの言及があり、建国は迫害されるユダヤ人の悲願の成就として説明されてきた。
 しかし、ベングリオン初代首相に代表されるイスラエル独立に携わった建国第一世代のシオニスト指導者は、ホロコーストの犠牲に対しては、祭祀のために犠牲に捧げられる羊のように死に赴いた消極的な行為と見なして、パレスチナにおける自分たちシオニストの勇敢な戦いとの間に一線を画した。むしろ、ワルシャワ。ゲットーでナチス・ドイツに対して武力蜂起したユダヤ人の英雄的な行為に対しては、シオニズムの大大義と軌を一にするので顕彰を惜しまなかったし、イスラエル国家としてもこのような英雄こそ「ホロコースト記念日」に讃えるべき存在だったのである。

 この本によると、「建国当初のイスラエルには、ホロコースト生存者に対する冷淡とも無関心ともいってもいい雰囲気が拡がっていたが、これは、このような文脈において理解されなければならない」と書かれています。
 それが、1961年の「アイヒマン裁判」を機に、「イスラエル国民統合の象徴」として、「ホロコーストの悲劇」が大きくアピールされるようになっていくのです。
 いまでも、イスラエル国民には、「無抵抗のままホロコーストで犠牲になった人たち」について、「何の抵抗もしなかった腰抜け」という考えを持っている人がけっこういるそうです。
 彼らは、その「悲劇」から、「手遅れになる前にこちらから仕掛けろ」という「教訓」を学んでいるのです。
 ときにそれが過剰防衛になるとしても、「座して死を待つよりはるかにマシ」だから。

 すでにイスラエルについて詳しい人にとっては、「いかにも教科書的、岩波的な内容」なのかもしれませんが、僕にはとても参考になる本でした。

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