琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

手塚先生、締め切り過ぎてます! ☆☆☆☆


手塚先生、締め切り過ぎてます! (集英社新書 490H)

手塚先生、締め切り過ぎてます! (集英社新書 490H)

手塚治虫伝説を目の当たりにして三〇有余年。
元チーフアシスタントが明かす巨匠の疾走(ときどき失踪)創作人生! 多くの名作漫画を生み出した巨匠・手塚治虫。著者は三〇年以上にわたり漫画編集者、同業者(漫画家)、そしてチーフアシスタントとして手塚の創作活動を見つめ、作品に関わってきた希有な経歴の持ち主。『火の鳥』『ブラック・ジャック』『アドルフに告ぐ』……、名作誕生の裏にある巨匠の日常とはいかなるものであったのか? 著者しか知りえないエピソードとイラストで浮かび上がる人間・手塚治虫の姿。関連年表とともに天才の軌跡をたどる。

「元チーフアシスタントが語る、手塚治虫の実像」、この新書のことを知ったとき、僕が期待したのは、いわゆる「裏話」というか、「暴露本」的なものでした。
手塚先生の人気が落ちていたとき、当時流行のマンガ(たぶん『巨人の星』だったと記憶していますが確実ではありません)に対して、周囲の編集者やアシスタントを捕まえて、「このマンガのどこが面白いのか、私にわかるように説明してくれ!」と詰め寄ったという噂の「真相」とか、アニメにまつわるお金の話とかが出てくるのではないかと思っていたのですが、そういう「手塚治虫の悪口」あるいは、「手塚治虫の欠点をあげつらう」みたいな記述はほとんどありません。アシスタントとしての「愚痴」みたいな話はちょっと出てくるのですが、「それも今となっては懐かしい思い出」というニュアンスです。

「まえがき」には、

 本書は、手塚治虫公式ファンクラブの会報誌「手塚ファンMagazine」に、平成14年(2002)から平成18年にかけて毎月掲載された、福元一義さんのエッセイ「アシスタントの日記帳」を加筆・修正の上まとめたものです。

とあり、要するに「ファン向けの読み物」として書かれたものなので、いたしかたないところではあるのでしょうけど。

ゴシップ的な面白さには根本的に欠けている新書なのですが、このなかには、たしかに、「マンガの虫・手塚治虫」が息づいています。

 ちょっとここで、当時の手塚プロの締め切り進行のことを話しておきましょう。週刊誌の場合、掲載誌の発売日から逆算して1週間前というのが、編集者との間でもタイムリミットとして暗黙の了解事項となっていました。
 それが『アドルフに告ぐ』の場合は、3週間以上も早いスタートとなったのです。担当の編集者もスタンバイしていないのに原稿が出てくるなど前代未聞で、先生の体調も安静養生を医者から厳命されていて、執筆活動自体を慎まなくてはいけないような状況なのに、無謀としかいいようがありませんが、同時にこの作品にかける、先生の熱い思いを感じたものです。
 翌15日になって、『ブラック・ジャック』がまず20ページ台に到達して脱稿し、16日には『陽だまりの樹』が18ページで脱稿。またその他につくばの科学博のポスター(B全大)1枚も完成しています。そして17日午後9時、『アドルフに告ぐ』第1回10ページが、発売日から約3週間前という早さで脱稿しました。通常の手塚プロ漫画部としては、光速に等しい進行です。
 引き続いて、19日には『ブラック・ジャック』の2作目20ページを脱稿。そして、2日おいて21日には、第2回目の『アドルフに告ぐ』10ページを脱稿しています。実に、11日から21日までの10日足らずの間に、漫画78ページとB全のポスターを1枚仕上げたことになります。
 今になって振り返ると、その中にはアイデアに時間がかかる1話完結の短編が2本と、骨格をしっかり決めてから始まる長編の新連載が1本あることを考えると、とても医師に安静を言い渡された作家が病床で執筆した量とは信じられません……が、前述の私の就業日誌には、当たり前のように
「21日『アドルフに告ぐ』第2回10ページ 脱稿」
とだけあります。

 ちなみにこれは昭和57年(1982)の話ですから、手塚先生が亡くなられる7年前。こんなスケジュールが「当たり前のように」記されているということは、けっしてこれが「特別な状況」ではなかった、ということなのでしょう。この新書からは、とにかくずっとマンガを描き続けていた巨匠の「仕事中毒」っぷりが伝わってくるのです。手塚先生は平成元年の2月9日に亡くなられて、僕たちはこの訃報に「昭和の終わり」を痛感させられました。60歳(しかも、手塚先生はデビューがあまりに若かったため、少し上の年齢を「公称」されていました)で亡くなられたというのは、いかにも「早すぎる死」ではあったのだけど、この本を読んでいると、いくらアシスタントが揃っていたとはいえ、こんな生活をしていて、よく60歳まで体がもったものだ、と思えてきます。

 この2年後、昭和59年(1984)に手塚先生が帝国ホテルで倒れたときのエピソード。

 先生は憔悴した様子で「ああ、福元氏が来てくれたのか」と言われたので、私は「どんな具合ですか」と尋ねました。
「うん、今ホテルのクリニックへ行って、注射を打ってもらったので、しばらく仮眠してからチェックアウトしよう。それまで悪いけど、新聞でも読んで待っててよ」とのころで、1時間ほど仮眠を取られました。
 その後、目を覚ました先生と一緒にタクシーで手塚プロに向かったのですが、先生は突然、私にこんなことを尋ねました。
「福元氏、入院したら読者から忘れられてしまわないかね」
 一瞬何のことかわからず、怪訝な面持ちで先生を見ると、「作家と読者って作品を介してしかコンタクトはないじゃないか? 入院したら作品は描けなくなってしまうだろう?」と言われます。
 ビックリした私が「入院されるんですか?」と尋ね返すと、しばらく間があって「うん、ひょっとしたらね。これはオフレコだよ」とのこと。
 しかし、こんなビッグな人が、自分の体のことよりも人気のほうが心配になるとは……私には想像もできなかったことなので、あらためて作家の業を感じました。

 誰もが認める偉大なマンガ家であったにもかかわらず、手塚先生は、つねに「危機感」に追われていたのです。
 そういえば、西原理恵子さんも『トップランナー』で、「どれだけ仕事をしても、まだまだ足りない、貪欲にやっていかないと、明日はどうなるかわからない」というようなことを仰っておられました。
 こういう「作家の業」みたいなものを背負って、自分で自分を追い詰めてしまうタイプの人じゃないと、トップに登りつめ、それを何十年も維持していくことは難しいのかもしれません。
 ねえ、冨●先生(……って、ちょっと調べていたら、1991年の冨●先生の「1週間の自由時間が19時間」という話が出てきました。そりゃもうちょっと人間らしい生活を送りたくなるほうが「普通」ですよね……)。
 
 この新書の最後のほうを読んでいて、手塚先生の「絶筆」のひとつ、『ネオ・ファウスト』を高校の図書館に置いてあった「朝日ジャーナル」で読むのを毎週楽しみにしていたことを思い出しました。
 第二部がはじまってすぐの状態で、絶筆になってしまったんだよなあ。

 以前、「赤塚不二夫先生のアシスタントからは、有名なマンガ家が大勢出たけれど、手塚先生のアシスタントからは、ついに一人も出なかった」という話(『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』感想)を御紹介したことがあったのですけど、この新書を読むと、手塚先生に悪気があったわけではなく、とにかくアシスタントたちも「手塚作品」を仕上げるのに手一杯だったこと、そして、手塚先生自身も、そういう「空気を読む」習慣がなかったことが原因だったのでしょう。

 手塚先生のもっとも「凄い」ところは、これだけ仕事に追われながら、最期までアウトプットをし続けられた創作への執念なのかもしれませんね。
 どんな「面白おかしく語られる奇行」よりも、やってきた仕事、描いてきたマンガそのものが「人間ばなれ」していた人だったんだなあ。

 

アクセスカウンター