琥珀色の戯言

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田尻 智 ポケモンを創った男 ☆☆☆☆☆


内容紹介
『CONTINUE』(太田出版)で、数回にわたり掲載された、ゲームフリーク田尻智氏のインタビューを書籍化した『田尻 智 ポケモンを創った男』(太田出版より2004年3月刊行)が待望の文庫化。
ゲームフリーク創刊号」再録や『クインティ』『ポケットモンスター』の設定資料を掲載。
文庫化にあたり、2004年『ダ・ヴィンチ』12月号収録の田尻智氏と羽海野チカさんとの対談記事と、羽海野チカさんの寄稿イラストを収録。

内容(「BOOK」データベースより)
世界中にブームを巻き起こした『ポケットモンスター』―この大ヒットゲームは、いったいどこからやって来たのか。その中心人物・田尻智が、昆虫採集に熱中した幼少時代、郊外での暮らし、モラトリアムな青年期、会社設立、そして『ポケモン』での成功まで。ビデオゲームにすべてを捧げた苦難と熱狂の日々を語る。羽海野チカとの対談を文庫特別収録。解説エッセイはブルボン小林


5年前に太田書店から出ていた単行本の文庫化。
単行本も持っていたのですが、引越しのときにどこかへ行ってしまっていたんですよね。
まさか単行本から5年も経って、文庫化されるとは思わなかった……しかも、「ダ・ヴィンチ文庫」からとは。
僕にとっては、「ダ・ヴィンチ文庫も存在価値があるんだな」と初めて感じたセレクションでした。

この本、たぶんいま中高生くらいの「生まれたときからテレビゲームがそこにあるのが当たり前だった世代」には、あまりピンとこない、もしくは、「そんな時代もあったのか……」というおとぎ話と認識されるのではないかと思います。

でも、田尻さんより少しだけ年下の「テレビゲームという新しい遊びが世の中に生まれ、そして進化していくさまを10代にリアルタイムで体験していた人間」である僕にとっては、あの時代に引き戻されたような体験ができる本だったのです。

田尻智あと、当時の僕がゲームについて書こうと思ったときにこういう文章になったというのは、あまり時代背景やなんかに興味が向かなくて、本当にゲームとゲームの周辺にしか興味がなかった。それこそ、親が倒れようが、先生が追っかけてこようが、俺はゲームセンターに行くんだ! みたいな(笑)、そのくらいの情熱があった時代の話だから。やっぱりゲームセンターの出現自体、自分の人生にとってあまりにインパクトが大きすぎたってことなんだよね。

こういう「気概」をゲームに対して持っていたのは、「ゲームセンターは不良の溜まり場」だと学校で言い聞かされ、ゲームセンターに出入りすることに、「補導」されたり、不良にカツアゲされたりするリスクが本当にあった世代だけなのではないかな、と思うのですよ。
あの頃の「ゲームをめぐる空気感」みたいなものは、たぶん、あの時代に「テレビゲーム初体験」をした人にしか理解できないのではないかなあ。


僕は「ポケモンの生みの親」になるずっと前から、田尻さんのことを知っていました。
もちろん、直接面識があったわけではなくて、『マイコンBASICマガジン』の「テレビゲーム紹介コーナー」で採り上げられていた、伝説のゲーム同人誌『ゲームフリーク』の主催者として、あるいは、『ログイン』『ファミ通』のライターとして。

僕が名前をはじめて知った頃の田尻さんは、「ゲーム好きが高じてゲーム同人誌を作ってしまった若いゲームマニアのひとり」(『ゲームフリーク』創刊が1983年なので、田尻さんは18歳か19歳)でしかなく、あの時代の田尻智が、25年後に『ポケモン』を擁する、ゲーム業界(にかぎらず、「遊びの世界」と言うべくででょうね)の主役のひとりになっているなんて、当時の僕には想像もつきませんでした。
この文庫には、当時の『ゲームフリーク創刊号』が再録されているのですが、いま見てみると、全部手書きで字も読みやすくはないですし、文章も、いかにも高校生が背伸びして評論家然として書きました、という手作り感あふれる代物です。
当時は、いまみたいに簡単にパソコンで活字を印刷できる時代ではありませんでしたし、コピー機すら一般的なものではありませんでした。
そんななかで、「ひとりで、ゲームの同人誌をつくった」という田尻さんの行動力が、その後の成功につながっているのかな、とこの本を読んであらためて感じます。

「誰だってできそうなこと」と「それを実際にやってみること」には、大きな大きな差があるのです。

クインティ』が「本当に完全自主制作のゲームで、完成後にナムコに持ち込まれたこと」にも驚きましたが、『クインティ』で稼いだお金で『ゲームフリーク』が会社化されてからの物語は、まさに、「あの時代に乱立した、少人数の家族的なゲーム製作会社」の数少ない成功例として、非常に興味深いものでした。
はじめて入社した女性をめぐって「彼女と関係があった男性」と「なかった男性」による内部分裂とか、せっかく作ったゲームがおかしな契約で「幻の作品」になってしまったこと、そんななかで、故・横井軍平さんが手をさしのべてくれたこと。
田尻さんの長年の「盟友」であり、「ポケモンの絵師」である杉森建さんですら、「女性関係を発端とした内紛の際には、反社長派だったことがある」とか、田尻さんは、ゲーム仲間たちのサークル活動の延長のような会社のなかで、外部の「大人」たちと渡り合っていくために「仕事場ではスーツを着る」ことを選んだとか……

あのころ「ゲーム少年」であり、「ゲーム少年のまま、クリエイターになりきれなかった大人」をたくさん見てきた僕としては(というか僕自身もそうなんですよね)、なんだか、「自分がなりたかった人の物語」を読んでいるような、それでいて、「ゲームデザイナーっていうのも、そんなに楽しいことばかりじゃないんだな」と、ちょっとホッとするような。

田尻さんと、あの頃他にもたくさんいた「ゲームを作りたかった人々」との最大の違いは、結局のところ「やろうと思ったことを実際にやってみる勇気と行動力」だったような気がします。

田尻智さんと杉森建さんの対談より。

杉森:僕自身が変わったところがあるとすれば、さっきの『ジェリーボーイ』時代の出向みたいなところから始まってて。田尻は学生時代から”社長”って呼ばれていて、会社を作る前からいろんな人間をまとめてたし、会社を作ったあとも本当の社長として、ダメオタクの集団みたいな連中に一所懸命給料を払ってたりとか、会社を整備したりとか、仕事を取ってきたりとかいろんなことを苦労してきてるわけじゃないですか。で、僕も今は肩書きが「取締役」で経営会議に出たりするんですけど、そういう責任が自分の身にも降りかかるようになってきた。


――あはは(笑)。


杉森:若い頃から、こういうことをやってたのかなあと実感してますね。やっぱり、そういうのはやらないとわからないっていうか。会社のメンバーにしても、トラブルを起こして辞めていっちゃう人間に限って、あまりそういう外との交渉ごとをやらせてなかったりとか、中でプログラムだけやらせていたりとか、そういうタイプの人が、やっぱりいなくなるんですよね。外に出るというのは大事だなあと、この歳になって、若かりし頃の社長の気持ちが、ようやくわかってきたというか(笑)。


田尻:あはは(笑)。

田尻智がひとりで『ポケモン』をつくったわけじゃない」
確かに僕もそう思います。
でも、プログラミングとかグラフィックの最高の技術者だけを集めても、『ポケモン』はひとつの作品としては完成しなかったはず。
田尻智という、『現実』に立ち向かっていけるリーダーがいなかったら、『ポケモン』はこの世に生まれなかった」のは間違いありません。

ポケモン』そのものよりも、「どういう人たちが、ゲームという「夢」を仕事にすることができたのか?」という問いへのひとつの答えとして、「テレビゲーム直撃世代」にオススメしたい本です。

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