琥珀色の戯言

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ネトゲ廃人 ☆☆☆☆


ネトゲ廃人

ネトゲ廃人

内容紹介
「私が眠るとみんな死んじゃう」
ネットゲーマーにしか通じない気持ちがある。「ゲーム依存症」という一言では括れない、独自の世界がある。しかしそれは、自らが「廃人」という言葉を使うようにリアル(現実)の世界を捨てる、生き方でもある。著者は、19人の「ネトゲ廃人」とともにインターネット・オンラインゲームの光と影を追う。彼らは、一体、どこへ向かうのか?


「私が眠ると、みんな死んじゃう」 「ネトゲ廃人」その悲惨な実態(J CASTモノウオッチ(2009/6/11))
僕がこの本のことを知ったのは、↑の記事だったので、実際に読んでみるまでは、「ゲーム脳の恐怖」みたいな、ものすごく極端な人ばかりを採り上げて「オンラインゲームには、こんな変な連中ばっかり!」と笑い物にし、「オンラインゲームの恐怖」を煽るだけの下世話な本なんじゃないかと思っていました。
しかしながら、実際に読んでみると、この本は、「丁寧な取材に基づいて現代社会の一面を描いた良質のルポタージュ」だったんですよね。
ただ、この本を読み終えて考えてみると、「ここで著者のインタビューに答えている人たちは、まだ、『ネトゲ依存が恢復あるいは軽快している』もしくは、『依存している自分を客観的にみることができる』人たち」であるわけで、この闇の底は、もっともっと深いのだろうな、と考えずにはいられません。

 あるとき、『ファイナルファンタジー11』で知り合ったゲーム仲間が集まるオフ会が開かれた。新宿の居酒屋に15人前後が参加した。彼らとは、ゲームで毎晩のように遊んだ仲だ。この人は正義感が強い、あの人はリーダー格に値する、彼は少し気が弱いなどと、正確を把握しているつもありだった。だいたい「こんな人だろうな」と想像して顔を出した。
 オフ会で、初めて本物の引きこもりになっている人たちと会った。ゲームの中では、「おまえ、ふざけんな!」と威張っていた男性が、なぜか、うつむいて彼女の顔さえも見なかったという。
 確かに、田中静のような華のある女性が参加すると、引きこもりがちの男性などは、どう対応していいか戸惑うかもしれない。
 隣には、何年も鏡を見ていないような女性が座っていた。眉毛のお手入れをしないのか、左右の眉毛がつながりそうになっている。髭をそってない女の子もいた。「それ、何年前の服?」と聞きたくなるような流行遅れの洋服を着ている女性。痩せ細って見るからに不健康そうな男性もいる。どの人も皆、廃人度が高いようだった。
 田中静は、このオフ会で「かなりの衝撃を受けた」と証言した。
 自分も相当にインドアなゲーマーだと自覚していた。しかし、ゲーム仲間に対して抱いていた想像と現実との落差に愕然とした。ゲームの世界で、みんなから頼りにされるヒーローが、リアルでは、こんなに頼りない人だったのかと、それもまたショックだった。
 そして、彼らこそ、田中静の鏡だった。決して他人事に見えなかった。彼らは自分自身でもあるのだ。

 こういう話を読むと、「いや、これは極端な例なんだろうけど……」とは思うんですよ、僕も。
 でも、「そういう現実もある」ということを考えずにはいられません。
 そして、ものすごく不思議なのが、そういう「ネトゲ廃人」たちも、こうしてオフ会とかに来て、リアルでのつながりを求めている、ということ。
 僕だったら、「オンラインでの自分を守るために、オフ会には出ない」と思う。

 僕も以前、あるオンラインゲームをやっていたことがあるんですが、すぐに挫折してしまいました。
 その主な理由は、とにかく「見ず知らずの人には、ゲームの中でも、声をかけづらかった」ということと、「いまから時間に制約がある自分が参入しても、『搾取されるだけ』だ」と感じたこと。

 「ネトゲという別世界で、別の自分を演じたくなる気持ち」はわかるのです。
 しかしながら、いまの「オンラインゲームの世界」っていうのは、ネットのなかに、「もうひとつの現実」をつくっているだけ。
 そこでは、時間をかけてレベル上げをしたり、みんなとうまくコミュニケーションしていかないと、楽しく生きていくことができない。

 そんなに「現実と同じこと」をやりたいのなら、現実でやればいいんじゃないかと思うのです。まあ、現実はそう簡単に努力が報われないし、リセットボタンもないけどさ。

 オンラインゲームで、「この世界から逃れること」を望んだはずの人々が、やっぱり「現実世界と同じようなシステムをつくってしまう」ということには、新興宗教、とくに「オウム真理教事件」を思い出さずにはいられない。
 結局、一部の幹部を除いては、大多数の「信者」は、ただ搾取されるためだけのために、その世界にハマっているように見えます。
 どこへ行っても、同じことの繰り返し。


 個人的には、毎晩飲みに行ったり、パチンコにハマるより、「ネトゲ依存」のほうがマシなのではないかと思うんですよ。依存の対象としてはね。
 特殊な事例を除いては、お金も健康もパチンコやお酒ほど損なわないはず。「24時間営業」というのは、ネトゲの最大の難点なのではないかと思いますが。

 「ネットゲーム」というのは、いわゆる「貧困ビジネス」のひとつになってきているのも現実です。
「オンラインゲーム先進国」(そして、「ネトゲ依存」が深刻な社会問題となっている)の韓国の「ゲーム産業振興院政策企画本部」の金部長という人に、著者の芦崎さんはインタビューされていますが、そのなかで、

「今、一番問題になっているのが、低所得者の共稼ぎの夫婦の子どもです。お金に余裕がないから塾に通わせられない。子どもを一人家において、親が長時間家を空ける子どもをどのように救済するかです。そういう子どもは、どうしようもなくゲームにはまってしまいます。政府の支援策として、低所得者の共稼ぎの夫婦の子どもをどうやって指導するか、そこに重点をおくべきだと私は考えています」

 という発言が出てきます。これはすでに日本も近い状況になっているのだと思われますが、「オンラインゲーム」っていうのは、すでに「貧者の娯楽」になってしまっているんですよね。
 僕のように昔からネットをやっている人間は、「ネットはお金がかかる」という古いイメージに引きずられてしまうのですが、もはや、「ネットはバカと暇人のもの」だけではなく、「貧者のもの」になりつつある。
 大人になってわかったのですが、女の子がついてくれる店に行くことやパチンコに行くことに比べたら、「ネット」や「テレビゲーム」って、本当に「お金がかからない娯楽」なんです。
 親は、「とりあえずパソコンでゲームやらせておけば、おとなしくしているし、コンピューターの知識も身に付くだろうから、まあいいか」と子どもを放っておいてしまうのでしょう。
 「たかがゲーム、いつか飽きるはず」って。

 ただし、これからも、「ネトゲ廃人」は、どんどん増えていくのか?と問われると、僕は必ずしもそうは思わないんですけどね。
 今の日本の社会ほど、「現実が優位」で、オンラインゲーム内も「現実と同じような世界」であればなおさら。
 「ひとり1ブログの時代」が来ると何年か前に言われていたのに、結局は「肌が合う、ごく一部の人たち」しか残らなかったのと同様に、「ネットゲームにハマれる人」というのもある程度の人数で飽和状態に達するのではないかと。


 僕は、この本を読んでいて、「現実に希望が持てない人たち」が、オンラインゲームから引き剥がし、「厳しい現実」に立ち向かわせることが本当に良いことなのだろうか?とも感じるんですよ。

 韓国でオンラインゲーム中毒に対する治療の論文がある精神科医・崔先生は、この本のなかで、こんなことを仰っておられます。

 韓国では、親は子どもがゲームのせいで勉強をしなくなり、友だちと付き合わなくなったと言って病院に連れて来ます。しかし、子どもから事情を聴いて子どもが直面している状況を考慮すると、その子にとってゲームという脱出口があることがむしと幸いだと思うことがある。

 僕だって、現実世界でベルトコンベアーを流れてくるパンにゴマを載せ続けるよりは、オンラインゲームのなかで「英雄」でいたほうが幸せなんじゃないか?と考えずにはいられません。
 オンラインゲーム依存への「治療」の難しさというのは、それが、アルコール依存やパチンコ依存に比べると、「本人の身体、あるいは経済的な影響が比較的少ない」「お金さえある程度あれば、隔離してしまえばそんなに周囲に迷惑もかからない」点にもありそうです。
 社会全体からすれば、「ネトゲ依存」というのは、「労働力にならない人口の増加」につながる、「悪いこと」でしょう。
 でも、本人にとっては、「つまらない現実」しかない場所に連れ戻されるのは、「良いこと」なのだろうか?

 それにしても、人間っていうのは、本当にめんどくさいものですね。なんのかんの言っても、「対人コミュニケーション」から逃れられない。
 みんながスタンドアローンの(昔の『ドラゴンクエスト』みたいな)、自分が主人公に絶対になれる1人プレイの)RPGで満足できれば、こんなことにはならないはずなんだけど……

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