琥珀色の戯言

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世論という悪夢 ☆☆☆


世論という悪夢 (小学館101新書)

世論という悪夢 (小学館101新書)

内容紹介
マスコミ・知識人の情報操作によって、「世論という悪夢」が生まれる。我々がそこから覚醒するために、必要な真の知性とは?
新聞・テレビが垂れ流すデマ、アイヌ問題や沖縄集団自決をめぐるタブー、天皇や戦争に関する無知……閉ざされた言論状況を打破する活字版「ゴーマニズム宣言」ついに見参。
'09年初頭をもって終刊した責任編集誌『わしズム』の人気巻頭コラム「天籟」に書き下ろしを追加。あのときの「ごーまん」は一つも間違ってなかったのだ。

 最初に注意。この新書は「書き下ろし」ではなくて、『わしズム』に掲載されていたコラムをまとめたものが大部分(一部書き下ろし)です。
 僕は『わしズム』もほとんど買って読んでいたので、半分くらいは既読でした。

 正直、小林よしのりという人の主張を読むのであれば、この新書を読むよりは、やはり漫画で読んだほうが良いのではないかと思うんですよ。読みやすいし。
 ただ、こうして文章だけで読んでみると、「絵の力」って大きいなあ、ということも感じます。
 同じ人物が同じ発言をしていても、その人の顔をプラスのイメージをこめて描いてある場合と、マイナスの場合とでは、読者が受けるインパクトは、だいぶ違います。
 この本では、「大衆に大きな影響を与え続けている小林よしのり」という人が、学会やマスコミから受けているさまざまな「バッシング」や「無視」が紹介されていて、「時代の寵児」も、けっしてラクじゃないのだなあ、と痛感させられます。
 ただ、その一方で、僕は、「もし『ものすごく医学の勉強をした』という漫画家が、医療のことについて世論を味方につけて、ものすごい圧力をかけて、自分の主張をアピールしようとしてきたら、どうだろう?」とも考えてしまうのです。
 実は、「本当の専門家」からすれば、かなり変なことも言っている可能性だってあるのかもしれない。
 ところが、あの「絵の力」「イメージの力」に、僕たちは押し流されてしまう。

 小林よしのりさんは、ものすごく勉強もしているし、市井の人々の「実感」みたいなものに、ものすごく寄り添っているのではないかと思います。
 しかしながら、それゆえに、その「情念」みたいなものに、みんな流されてしまうことも多くなるんですよね。
 僕は、「この主張は美しいし、カッコいいとは思うけれど、それを受け入れると、自分も戦争に行かなければならないのではないか?」とも感じるのです。
 逆に「自分が戦場に行く覚悟もないのに、小林よしのりを『支持』することが許されるのか?」とも思う。
 そしてたぶん、いまの小林よしのりは、「戦場に送られることはない存在」になってしまった。

 昔から小林さんの活動をみてきて感じるのは、「結局、この人はいろんな弱い者たちを応援しては、その相手が力をつけたとたんに裏切られてしまっているんだよなあ」ということでした。
 薬害エイズ問題にしても、「教科書問題」にしても。
 以前、古賀誠さんの講演会にゲストで出られていたことがあって、僕は小林さんの話を聴きました。なんとなく、「いろんなことを頭で考えてはいながら、『友達』には冷たくできない人なのかもしれないなあ」と感じながら。
 あまりに「敵」と「味方」をくっきり分けてしまうスタイルというのは、わかりやすいけれど、接する側としては、注意が必要なんじゃないかと。
 それこそまさに、「小泉劇場」の手法だったのだから。

 この新書のなかで、いちばん印象的だったのは、以下の文章でした。

 最後の一言指摘しておく。玉砕も散華も悠久の大義も死に対する意味づけである。無意味な死という物語の解体に我々は耐えられない。死を意味づける物語が消滅した世界では、特急列車の中で女性がレイプされていても誰も助けようとしない虚無主義だけが蔓延する。

 『銀河英雄伝説』で、ヤン・ウエンリーは、こんなことを言いました(誰かの言葉の引用だったかもしれません)。

 人は、戦争をはじめるときには、「命より大切なものがある」と言い、戦争をやめるときには「命より大事なものなんてない」と言う。

 個々の人間にとって、「自分の命」のことだけ考えるのならば、「特急列車の中でレイプされている女性」を助けるのは、メリットに比べて、リスクが大きすぎるのは事実です。
 だからといって、みんなが「見て見ぬふりをするのが当然の社会」というのは、あまりに悲しい。
 「そのために警察がいるんだろ?」という人は、たぶん、実際の暴力にさらされたことがない人で、身近な暴力に対して、警察というのは、「何かが決定的に損なわれたあとで、事後処理をしてくれる存在」でしかありません。
 いくら警察が犯人を逮捕し、司法が死刑にしても、損なわれたものは、そのままの形では戻ってこない。

 たぶん、社会のなかで人間が人間らしく生きるためには、「死(あるいは自己犠牲)を意味づける物語」が必要なのでしょう。
 でも個々の人間にとって、それが「幸福」なのかどうか、今の僕にはよくわからないのです。
 

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