琥珀色の戯言

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13日間で「名文」を書けるようになる方法 ☆☆☆☆☆


13日間で「名文」を書けるようになる方法

13日間で「名文」を書けるようになる方法

内容紹介
どうしたら「自分の文章」を書けるようになるのか?生徒たちの熱い気持ちにこたえて、タカハシ先生が画期的な授業をおこなった。「感想文」は5点でかまわない。「自己紹介」は自分を紹介しないほうがずっと面白い。最高の「ラブレター」の書き方とは?「日本国憲法前文」とカフカの『変身』をいっしょに読むと何が見えてくるのか……。生徒たちの実例文も満載。読んでためになる、思わず参加したくなる楽しい文章教室!

内容(「BOOK」データベースより)
ベストセラー『一億三千万人のための小説教室』をしのぐ二十一世紀の文章教室の決定版。伝説の名講義、ついに活字化。

このタイトルから、「良い文章を書くためのテクニックを教えてくれる本」だと思って購入したのですが、その予想は、すっかり裏切られてしまいました。
正直、「これって『釣りタイトル』なんじゃないの?」という気もします。
しかしながら、この本、すごく面白かったです。
高橋源一郎さんが、明治学院大学の国際学部で行っている「言語表現法」の講義の模様を活字化したものです。講義中の生徒の反応も書いてあるのですが、医学部の講義しか受けたことのない僕にとっては、大学の講義って、こんなに和気藹々とした雰囲気で行われているのか、と驚いてしまいました(もちろん、活字化する際に、多少の脚色はされているのかもしれません)。
これを読みながら考えたのは、「誰でも(といっても、明治大学の学生さんたちなので、それなりの素養はみんな持っているのではないかとは思いますが)、「自由にものが言える雰囲気」と、「それをきちんと評価してくれる人」がいれば、魅力のある文章が書けるようになるのだな、ということでした。

この講義では、「ことば」とは何だろう?という問いが、繰り返されます。

 誰だったか忘れましたが、わたしが読んだある本で、その人は、「顔とはことばだ」と書いていました。
 そうなのかもしれません。だとすると、わたしたちは、ある人に会って、その「顔」を見ると、そこに書かれている「ことば」も、同時に読んでしまうのです。
 そして、たいていの「ことば」は、ただのことばだと思って、読み過ごしてしまうのに、ある瞬間、激しく惹きつけられ、読み続けたくなる「ことば」があるのかもしれません。
 わたしたちは、ある「顔」を見て、その「顔」を忘れられなくなります。そして、その「顔」の中身を、つまり、「ことば」の「意味」を知りたくなるのです。
 わたしが、気違い沙汰だと思うのは、そこでおかしなことが起こってしまうからです。
 というのも、その「顔」に「恋愛」をしたわたしたちは、その「顔」の持ち主のことをもっと知ろうとします。そして、最終的には、その人間のすべてを知り、所有しようとさえします。その結果、どうなるかというと、その「顔」を見て「恋におちた」時の条件をすべて失ってしまうのです。
 わたしたちは、相手を「知らない」から「恋におち」、その結果、相手を知ろうとして、やがて、その「恋」を失うのです。
 つまり、わたしたちは、「恋愛」を失う条件を作り出してしまうために、命がけで「恋愛」をしていることになるのです。
 わたしたちは、「恋愛」をしている最中には、そんなことを考えません。それにしても、こんなに非「効率的」なことがあるでしょうか?
 Kさんが書いているように、本や小説には、「恋愛」が溢れています。マンガや雑誌も同じです。もちろん、テレビや映画も。テレビや映画から「恋愛」を失くしたら、ほとんどなにも残らないでしょう。
 それほどまでにありふれているのに、誰でもその存在は熟知しているのに、では、それはどんなものかというと、曖昧にしか答えることはできません。なぜなら、本も、小説も、マンガも、雑誌も、テレビも、映画も、「恋愛」を描こうとするだけで、それがほんとうはどういうものかということだけは、説明しようとしないからです。

「わたし」という牢獄に閉じこめられたわたしたちが、とりうる手段は、脱走だけでしょうか?
 いえ、もうひとつあることをわたしは知っています。いうまでもなく、それは「ことば」です。「ことば」は、牢獄の窓から、緊急の手紙に脚をくくりつけられ、放たれた一羽の鳩ではないでしょうか。そして、そんな鳩だけが、他の牢獄の窓から侵入し、そこに閉じこめられた囚人に、手紙を送り届けることができるのです。

高橋さんが、若かりし頃に、失語症で悩んだ経験があったと僕は記憶しています。

この講義のなかで、学生たちが書いている文章を読みながら、僕は「面白いなあ、みんなすごいなあ」と感心していました。でも、こういう文章を書く人たちって、たとえば僕の大学の講義で、同じようなことを書いていたら、明らかに「浮いている人」として、周囲から怪訝な目でみられるのだろうな、とも思ったのだけれども。

この本を読んでも、たぶん「13日で名文を書ける」ようにはなりません。
しかしながら、「名文」を書けなかったのは、「名文」を書こうとするあまり、あるいは、他人の目を意識しすぎて、書きたいことを書けなくなってしまうからなのだ、ということが、なんとなくわかってきます。

最初の講義で、高橋さんは、スーザン・ソンタグの「若い読者へのアドバイス」を学生たちに紹介しています。

 検閲を警戒すること。しかし忘れないこと――社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、自己検閲です。

このスーザン・ソンタグの文章は本当にすばらしいもので、機会があれば、この部分だけでも立ち読みしていただきたいくらいです。

 2005年4月から、わたしは明治学院大学で「言語表現法講義」という授業を行っている。タイトルはいかめしいが、簡単にいうなら「文章の書き方」だ。
 わたしは、学生諸君に、わたしが好きな「文章」を読んでもらう。それから、なにか課題を出し、学生諸君に、「文章」を書いてもらう。そして、それらの「文章」について、学生諸君といろいろ話し合う、というか考える。それが「言語表現法」の内容だ。
 もしかしたら、それはありふれた授業なのかもしれない。少し工夫があるとしたら、わたしは、学生諸君の「文章」に一切手を加えないようにしていることだ。いわゆる「添削」はしないのである。
 おかしいじゃないか、といわれるかもしれない。「文章の書き方」を教えるなら、それこそ、手をとり、足をとり、少しでも「良い文章」になるように、学生諸君を指導するべきではないのか。
 わたしは、そうは思わないのだ。だが、その理由を説明することはむずかしい。

(中略)

 10年以上前のことだ。わたしは、小学校5年生たちに「文章」を教えたことがある。というか、教える必要なんてまったくなかった。まったくもう、驚異的な「名文」のオンパレードだった。ところが、そんな「名文」を書くことができた小学5年生たちが、中学に進学すると、彼らの書く「文章」が下手くそになっちゃうのである。あんなに元気溌剌としていた「文章」たちが、気息奄々、病人みたいになっている。それもこれも、「背筋を伸ばして!」といいすぎるからだ。教えれば教えるほど、「文章」は下手になる。だから、わたしは、できるだけ、教えないようにした。それが、「名文」へと近づく、唯一の道ではないだろうか。

 「書いてみたい人」にとっては、励まされ、また、打ちのめされる一冊です。
 僕もこんな講義を受けてみたかったけれど、僕には高橋さんに紹介されるような「作品」は書けなかっただろうなあ……

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