琥珀色の戯言

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戦場取材では食えなかったけれど ☆☆☆


戦場取材では食えなかったけれど (幻冬舎新書)

戦場取材では食えなかったけれど (幻冬舎新書)

内容(「BOOK」データベースより)
三七年にわたり「終わらないベトナム戦争」を取材し続ける竹内正右氏。ポル・ポトに三回会った唯一の外国人、馬渕直城氏。軍事オタクが高じて戦場ジャーナリストになり、世界の戦争を見尽くした後、バグパイプ奏者に転じた加藤健二郎氏。九・一一の映像に衝撃を受けて戦争取材に身を投じるも、経済的に困窮し、サラリーマンに転じた中川昌俊氏。時代遅れで無鉄砲で極端、だが、知恵と冒険心とユニークな発想に溢れた四人の人生に、戦場取材を志すも思い半ばで断念した体験を持つ著者が迫った、異色のインタビュー集。

「男子」であれば、誰でも一度は憧れるであろう、「戦場カメラマン」。
戦火のなかを駆け回り、戦争の悲惨さを訴えるために体を張って一枚の写真に賭ける男たち(女性もいるんですが)。
そんな、カッコいい戦場カメラマンたちの生の声が聞けるインタビュー集だと思い、購入したのですが……

うーん、これはある意味「生の声」ではあると思うんですよ。
でも、僕が望んでいた内容とは、ちょっとかけ離れているような……

ここで語られている戦場カメラマンたちの言葉を読んでみると、「世の中には『戦争好き』が嵩じて戦争カメラマンになる人とかが本当にいるんだなあ……」と驚かされます。
そして、僕がいちばん驚かされたのは、「ポル・ポトに3回会った唯一の外国人」馬渕直城さんの「暴走」っぷり。「ポル・ポトは、『虐殺』なんかやってない!」と主張する馬渕さんと著者の日垣さんとのやりとりは、不毛を通り越して、「ただでさえ200ページくらいしかない新書なのに、こんな「自分が会った偉い人のファンになってしまったオッサンの妄言」でページ数を稼ぐなよ……と苦笑してしまいました。
この本、学術的な検証をする本ではないので、当事者の主観がぶつかり合っていて、読んでいると、なんだかわけがわからなくなってしまうのです。まあ、それはそれで、ネタとしてはつまらなくはないのですが。

竹内正右さんの「ベトナム戦争でアメリカに利用された、モン族の悲劇」の話には、僕もイーストウッドの『グラン・トリノ』を観て感銘を受けただけに驚きました。

日垣:他国に翻弄されるラオスのなかでも特にモンに長年、竹内さんは心を寄せていらっしゃいます。
 北部の山奥で主に焼き畑農業などによって穏やかに暮らしていたモンは、その居住地区を北べトナム軍の補給路となる道路が貫通していたがゆえに、ベトナム戦争において輸送を阻止したいアメリカに目をつけられた。アメリカは地理に詳しいモンを味方に引き入れ、訓練してゲリラとして使ったのですね。


(中略)


日垣:ベトナム戦争では米軍兵士の戦死者は約5万8000人。モンの戦死者は実に20万人だそうですね。


竹内:そうです。しかし、アーリントンの御影石の碑にモンの人々の名は刻まれていません。モンの悲劇についてはずいぶん長い間、歴史に埋もれていたままだったのです。それが1990年代になってアメリカで情報公開令が施行され、インドシナ戦争に関する公文書が公開され始めた。そこから中立国ラオスに暮らしていたモンがいかにしてベトナム戦争に巻き込まれていったか、読み取ることができるようになったのです。

この話を読むと、もしかしたら、『グラン・トリノ』というのは、イーストウッドによる「贖罪」の映画だったのではないか、と思えてくるのです。

でもなあ、とくに馬渕さんの項については、「それ、本当なの?」と言いたくなる内容が多かった。
ナチスのユダヤ人虐殺について、日垣さんが「虐殺はなかったという研究者が大勢いる」「アウシュビッツで、ガス中毒による死体は一つも確認されていません」なんて言っているのを読むと、僕たちが「知っている」歴史とかニュースの内容は、どこまで「真実」なのだろうか?と疑念もわいてきます(いや、正直言って、この本に出てくる戦場カメラマンたちの話も眉唾物だな、と感じずにはいられないんですが)。

馬渕:確かにいろいろなところで戦争が起こっていますが、ベトナム戦争の取材といまのイラン、イラクアフガニスタンの戦争取材とでは決定的に違うことがあります。
 ベトナム戦争においては、建て前にせよアメリカの民主主義が生きていて、取材をさせた。たとえ北爆で病院を誤爆してしまったというニュースでさえ止められることはなかった。ジャーナリストが現場取材に行くといえば、軍隊がヘリコプターを提供しなければいけないというように、報道は尊重されていました。
 クウェート侵攻以降、基本的にジャーナリストには戦場で何も見せないようになりました。言われたことだけを忠実に報道する「エンベデッド(embeded)」と言われるジャーナリストしか同行取材させなくなったんです。体制べったりでなければ戦地に入れない。つまり、取材の自由があるかないかの問題です。

要するに、いまのアメリカの「戦争ジャーナリズム」の大部分は、「アメリカ政府の都合のいいことしか言わない人」になってしまっているんですね。
まあ、この話などは、むしろ「ベトナム戦争くらいまでのアメリカというのは、すごい国だったんだな……」と感心してしまう面もあるのですけど。

そして、インターネットの拡がりは、「戦争ジャーナリズム」にも劇的な変化をもたらしているそうなのです。
中川昌俊さんは、こんなことを仰っておられます。

中川:いまやYouTubeも含め、個人が放送局同様に情報発信できる手段を持ってしまいました。
 それはゲリラ側も使えるわけです。加藤さんがおっしゃったようにかつては、ゲリラも自分たちのスポークスマン的な役割を担わせるためにジャーナリストを受け入れていましたが、自分たち自身で発信できるということは、もうスポークスマンは必要ない、ジャーナリストは必要ない。お前たちなんかYouTubeよりも影響力がないぞと、取材させてくれないのです。

ロバート・キャパは遠くなりにけり。
いまや、「戦争カメラマン」は斜陽産業になりつつある。
もっとも、YouTubeでの生の映像だけでは、結局、お互いの言いたいことしかわかりませんから、今後はその情報を取捨選択する人が重要にはなってくるのでしょうね。

ちょっとアクが強い新書ではありますが、「戦場カメラマンというのは、どういう人間なのか?」に興味がある人は、読んでも損はしないと思います。
僕はこれを読んで、「ああ、こういう個性の強い人たちじゃないとやっていけないのなら、僕には戦場カメラマンは無理だな絶対、なろうとしなくてよかった……」と、少し安心しましたよ。


参考リンク:ロバート・キャパ〜その生涯と作品 in 長崎県美術館(琥珀色の戯言)

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