琥珀色の戯言

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若き友人たちへ―筑紫哲也ラスト・メッセージ ☆☆☆


若き友人たちへ―筑紫哲也ラスト・メッセージ (集英社新書 515B)

若き友人たちへ―筑紫哲也ラスト・メッセージ (集英社新書 515B)

内容(「BOOK」データベースより)
愛国主義は悪党の最後の隠れ家である。本書の中で筑紫さんが語る言葉の一つである。誰もが反対しづらい美辞麗句、思わず振り向いてしまう大きな声には注意が必要だ、という意味である。二〇〇三年から二〇〇八年にかけて、筑紫さんは早稲田大学立命館大学で主に大学院生に向けた講座をもっていた。その中で再三伝えようとしたのは、情報や情緒に流されることなく自分の頭で考えることの素晴らしさであった。この一連の講義録をもとに、本書は構成された。「若き友人」を「日本人」と置き換えてもいい。筑紫哲也さんからの最後のメッセージである。

2008年に亡くなられた筑紫哲也さん。
僕のイメージでは、久米宏さんと並ぶ、「ザ・キャスター」なのですが、筑紫さんの言動については、率直に言うと、「平和を望むのは悪いことじゃないんだけど、あまりに理想を追いすぎているというか、『平和ボケ』なんじゃないだろうか、この人は……」と、社民党の福島党首と同じような「現実の世界が見えていない、浮世離れした人」という印象がありました。

菊と刀』には、極めて予言的なことが書かれています。おそらく最後に追加された部分だと思うのですが、まず、戦争に負けた日本とドイツは、軍備を持つことは許されないだろうから、自分たちの生活向上のためにエネルギーを使うことが可能だと言っています。これはまさに、吉田茂がやったことです。
 また例えば、中国はやがて軍備増強に向かうだろうけれど、日本はそれをやらないことによって、平和の経済に力を注ぐことができ、遠からず東洋の通商貿易において、必要欠くべからざる国になるだろう。その経済を平和の利益の上に立脚せしめ、日本の国民水準を高めることができるだろう。そのような平和な国となった日本は、世界の国々の間において、名誉ある地位を獲得することができるだろう。そうも予言しています。
 これは1946年に出版された本なんです。戦争が終わってやっと1年後に。それが日本の戦後というのを、見事に予言している。せっかくそうやって手に入れたものを、なぜ投げ捨てて中国やアメリカのように軍備のほうへ金をどんどん移していって、「普通の国」にならなきゃいけないのか。
 このことは、今を考える上で大変意味があります。

たしかに「戦争をする国」になってほしくはありません。
しかしながら、僕は小林よしのりさんの著書もけっこう読んでいるので、こういう話に関しては、「それが許される世界がずっと続くという保証があればいいんだろうけど……」という気もしてしまうんですよ。
内田樹先生の『日本辺境論』には、日本人は、憲法9条をうまく「利用」して、「戦争」をのらりくらりと回避し、太平洋戦争後に「戦死者」がいない稀有な国となったというようなことが書かれています。
ただ、それがいつまで許されるのか、続けられるのか、みんなそろそろ自信がなくなってきているのではないかなあ。

筑紫さんの「ニュースソースの秘匿」に関する警鐘などには、「いろいろ言われているけれど、やっぱり気骨のある人ではあるなあ、とあらためて感じたのですけどね。

 一応準拠する法はあります。日本でいえば憲法第21条、アメリカでは憲法修正第1条。しかしどちらも、直接、情報源の秘匿を認めているわけじゃなう。だから自分たちでそれを守って、時には監獄入りも覚悟して守り抜く、そういうものなんです。それを、この週刊誌(『週刊新潮』の筑紫さんへの中傷記事)のように使われてしまうと、ただの言い逃れにすぎないではないかと。ジャーナリズム全体が不利になっていくわけで、それは大問題じゃないですか、というのが、実は私の『週刊新潮』への問いかけだったのです。

「学ぶこと」に対する、こんな話も興味深かったです。

 さっき言った「知の三角形」の真ん中のところに、どうやったら知識を蓄積できるのか。これが学ぶということ、あるいは情報化社会のなかで生き延びるということにつながるんですが、二つのことがあります。
 まず、キイワードの体系化ということ。バラバラに捉えた知識というもの、あるいは記憶というものは身につかない。これは、脳科学なんかから出てくる話です。つまり、知識というものが自分の内面の身につくには、ある種の体系化が必要なんです。いろんなもののつながりのなかで物事を覚えていくということです。
 円周率を記憶するコンテストというのがあります。3.14……という延々と続く数字の羅列、あれえですね。このコンテストでは、今までずっと、若い人しか勝てないと思われていた。実際、ある時期まではそうでした。ところが、ソニーの中年の会社員が世界チャンピオンを獲り続けたことがあったんです。
 私は彼に「なぜそんなことが可能なのか?」と聞きました。「長い間人生を生きてきた人間のほうがたくさんの知識を持っている。数字を覚える時に、いろんな形のイマジネーションで覚えていく。そういうイメージは大人のほうが多くもっている。だから自分のほうが若い人より有利なんです」というのが彼の答えでした。
 記憶力という点では若者のほうが優れているけれど、体験というものを組み立てる力は彼のほうが強い。そういうことなんです。
 つまり、どうやって知識を体系化していくか、これがまさに学問、学ぶということじゃないでしょうか。

もう若くない僕としては、たいへん勇気づけられ、また、考えさせられる話です。
こんな情報化社会でも、「経験」というのは、正しく使えば、やはり大きな「武器」になるのだなあ。

実は、この本のなかで、僕がいちばん印象に残ったのは、最後に収録されている、「16歳の筑紫さんが綴った『半生記』」だったんですよね。
引っ込み思案で、運動が苦手だった筑紫さんは、小学生のときに太平洋戦争の激化により、集団疎開に参加したのですが、疎開先では周囲にいじめられ、かなりつらい体験をされたようです。
筑紫さんの「平和主義」は、大局的な「世界情勢の分析」とか「天下国家への提言」ではなく、こういう実体験があって、「もうあんなつらい目に遭ったり、誰かを遭わせたりしたくない」という場所からスタートしているのだと思うと、なんだかすごく、筑紫さんの気持ちが理解できるような気がします。
同じように「運動音痴で臆病な人間」である僕も、たぶん、戦争の時代に生まれていたら、同じようなつらい体験をしたはずですから。

自分で戦争を体験したことがないにもかかわらず、「日本を戦争ができる普通の国に!」なんて平然と言い放てる人間に、筑紫さんを「左寄りの平和ボケジャーナリスト」とバカにする資格があるのだろうか?

さて、新渡戸稲造(『武士道』の著者)は旧制一高の校長もやりました。その校長を辞める時に、イギリスのサミュエル・ジャクソンという文学者の言葉を引用して辞任演説を締めくくっています。それは「愛国主義は悪党の最後の隠れ家である」というものです。これ、痛切に今も生きていると思います。

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