琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

キムタク、ありがとう。


今朝の日刊スポーツの記事。

 プロ野球巨人の木村拓也(きむら・たくや)内野守備走塁コーチが7日午前3時22分、くも膜下出血のため広島市南区の広島大病院で死去した。37歳だった。宮崎県田野町(現宮崎市)出身。葬儀・告別式は未定。
 木村さんは2日に広島市南区マツダスタジアムで行われた広島−巨人1回戦の試合前に練習でノックを打っている際、ふらつきながら突然倒れた。搬送された病院でくも膜下出血と診断され、意識不明の状態が続いていた。
 木村さんは1991年に日本ハムに入団後、広島、巨人で内外野に加え、捕手も守れる選手として活躍。昨年現役を引退し、ことしから巨人の内野守備走塁コーチを務めていた。

倒れられたときの様子と「くも膜下出血」という病名、その後の続報から、厳しい状況であるということは感じていましたが、僕もずっと、「奇跡が起こってくれないものか」と願っていました。
キムタク(普段、カープファンは木村拓也選手のことをこう呼んでいるのです、芸能界のキムタクファンには不快かもしれませんが、今日だけは許してください)は、巨人のコーチとしてマツダスタジアムで倒れてしまったけれど、僕にとっては、ずっと「カープの人」でした。
キムタクは現役時代、さまざまなインタビューで、「自分がプロ野球選手としてやっていけるのはこのチームのおかげだし、カープにはすごく愛着がある。カープの厳しい練習や雑草集団的なチームカラーも自分にピッタリだと思っている」と公言していましたし、ブラウン監督時代に巨人に金銭トレードされた際も、「カープで選手生活を終わるものだと思っていた」と涙を流していました。もっとも、「キムタクはブラウン監督に干されてトレードされた」と僕はずっと思いこんでいたのですが、実際は、「出番がなくなりそうだったので、自分からトレードを希望した」そうです。その理由が「まだ子供も小さいし、家のローンもあるから」。
でも、巨人に移籍したあとも、キムタクの家族は、みんな広島に住んでいて、キムタクはずっと東京に単身赴任していたそうです。
きっと、いつか広島に戻ってくるつもりというか、ちょっと出稼ぎに行くつもりだったのが、思いのほか巨人での生活が長くなってしまっていたのではないかなあ。
野球選手としては、名門・巨人で活躍して、「外様」でありながらも引退後即コーチに採用されたのですから、このトレードはものすごくプラスになったのだろうけど、巨人でプレーすることや巨人でコーチをやることのストレスは確実にあっただろうし、もし、あのトレードが無かったら……というようなことも、つい考えてしまうのです。
そんなの、どっちが良いとか悪いとか、誰にも決められないことなんだけどさ。

正直、カープ時代のキムタクへの僕の印象は、「いてくれて助かるけれど、キムタクがレギュラー張ってるようじゃ、カープもなかなか上に行けないよなあ」というものでした。

木村拓也(Wikipedia)
↑の年度別成績を参照していただきたいのですが、キムタクは3割以上の打率を残したことはないし、ホームラン10本以上を記録したのは2シーズンのみ。
「ピッチャー以外はどこでも守れる」というユーティリティプレイヤーっぷりはすごかったのですが、裏を返せば、「万が一のときのために、ベンチに控えてくれている」という状態が、もっとも「チームにとっては理想的」でもあったわけです。
「どこでも守れる」というのは、すごいことではあるけれど、イチローにキャッチャーをやることを要求する首脳陣はいません。「至高の外野手」であるイチローは、最初にレギュラーの外野手として固定されるだけです。
逆にいえば、キムタクは、「便利屋」として「プロ野球選手として生き残るために、いろんなポジションをやらなければならなかった」。

キムタクは、「記録にのこる選手」ではありませんでした。
これを書きながら、「キムタクの記憶に残るプレー」を思い出そうとしているのだけれど、カープ時代のキムタクのプレーで、僕の記憶に残っているのは、トップバッターなのにやたらと三振していたことと、チーム事情でサードを守ったときにエラーが続き、「キムタクでも苦手なポジションがあるんだな、サードはセカンドやショートよりも簡単だと言われているのになあ」と思ったことくらいです。

ただ、去年の緒方の引退試合で、「ずっと世話になっていた」という緒方が待つセンターに狙いすましたようにフライを打ち上げ、心底嬉しそうにしていた笑顔は忘れられません。
あの試合は1対0でカープがリードしていて、すでに引退を決意していたキムタクにとっても、「広島での最後の打席」だったのに。

たぶん、キムタクがこういう人だから、「あのにっくき金満球団・巨人」に移籍したあとですら、カープファンは、キムタクのことが大好きだったのだと思います。
キムタクも、ずっとカープとファンのことを、特別な存在だと感じてくれていたと僕は信じています。


球界のキムタク襲った突然の悲劇 横浜・寺原「すごくいい人」
↑で紹介されている、東出選手とのやりとりも、いまは悲しくてしょうがないはずなのに、なんだかとても心温まりました。
期待されているのになかなか結果を出せずにずっと悩んでいた東出は、きっと、キムタクの存在にずっと励まされていて、「キムタクのあとのカープのセカンド」を守っていることに、すごく喜びを感じたのではないかなあ。

NPB新人研修 木村拓コーチ講義内容(Yomiuri Giants Official Web Site)

キムタクは、今年3月に、プロ野球の新人研修の場で、↑のような話をしたそうです。
こんなアクシデントがなければ、この話が注目されることはなかったであろうことは悲しむべきことなのですが、僕はこれを読みながら、現役時代に「器用貧乏だなあ」と思っていたキムタクの陰の努力と野球選手、そして、家庭人としての「覚悟」に涙が止まらなくなりました。
宮崎の進学校出身で、「ドラフト外」でのプロ入りに周囲から猛反対されたこと、プロの練習に参加して、あまりのレベルの違いに愕然としたこと、セカンドの練習をしたのは、当時のカープで「狙えそうなポジション」が、そこしかなかったからだった、ということ。そして、カープからのトレードは、「家族の生活のため」に本人が希望したこと。巨人で体験した、「チームが勝つこと」の喜び……

自分は「こういう選手になろう」と思ってここまで来た選手じゃない。こうやるしか思いつかなかった。それが「ユーティリティープレーヤー」、「何でも屋」で、それでもこの世界で食っていける。「レギュラーになる、エースになる」だけではない。巨人の藤田宗一投手は、中継ぎ登板だけで自分と同じ歳までやっている。それで飯が食える、それがプロ野球。「俺が一番うまい」と思って入団して、一番得意だった事がうまくいかない。それもプロ野球。その時にあきらめるのではなく、自分の話を思い出してほしい。投げ出す前に、自分自身を知って可能性を探るのも必要ではないか。

これって、「プロ野球選手」だけの話ではないはずです。
キムタクは、巨人への移籍が決まったとき、「なんで戦力が充実している巨人なんだ…」と思ったそうです。僕も、「ああ、これでキムタクも今季で引退だな」と感じたものでした。
いままで、巨人に移籍したベテランの多くが、そういう道をたどってきたから。

でも、キムタクは、生き延びた。
考えてみれば、「エリート集団」で、「プライドが高い選手が多い」巨人だからこそ、キムタクは「つなぎ役」として重宝されたのではないでしょうか。
人間、何が幸いするかわからない。もちろん、チャンスをものにできたのは、キムタクが常に準備をおこたらなかったから、なのですが。

カープからキムタクがトレードされたときには、「まあ、出番もあんまりなさそうだし、淋しいけどしょうがないか」と思ったものです。
にもかかわらず、それから、何度、「ああ、いま、カープにキムタクがいてくれたらなあ!」と嘆息したことか……
いなくなったA井やK本のことを、そんなふうに思い出したことは一度もなかったのにね。

引退セレモニーで、「パパはがんばったよ!」と子供たちに誇らしげに叫んでいたキムタク。
引退するのは早いのではないか、という声に「こう見えても、もうボロボロなんですよ」と語っていたキムタク。
同じ世代の男として、父親として、いたたまれないのと同時に、羨ましくもあります。
少なくとも、「若くして亡くなったから、不幸な人生」では、なかったはず。僕は、そう思いたい。

ひとつだけ言えることは、「木村拓也」というひとりの地味な野球選手が打ち上げた優しいセンターフライは、緒方選手だけでなく、僕みたいな「一番得意だった事がうまくいかない。それでも、生きていかなければならない人間」にも、ちゃんと届いている、ということです。
キムタクのお子さんにも、きっと、届いているはずです。
王・長嶋にはなれなくても、キムタクのように「必要不可欠な存在」になれる可能性はある。
もちろんそれは、簡単なことではないけれど、人は、挫折しながらでも、自分の居場所にたどり着くことができる。

僕は、若くして、くも膜下出血で亡くなった野球選手としてではなく、しぶとくて、泥臭くて、でも、プロとして生き残るために全身全霊をかけてプレーした選手として、キムタクを覚えておくことにするよ。
才能がそんなに無い人間が生きていくにはどうすればいいのか、キムタクは僕に教えてくれた。本当にありがとう。
いつかそちらで会うことがあったら、僕とキャッチボールをしてくれると嬉しいです。