琥珀色の戯言

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街場のメディア論 ☆☆☆☆


街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

出版社/著者からの内容紹介
「街場」シリーズ第4弾、待望の新刊は「メディア論」!
おそらくあと数年のうちに、新聞やテレビという既成のメディアは深刻な危機に遭遇するでしょう。この危機的状況を生き延びることのできる人と、できない人の間にいま境界線が引かれつつあります。それはITリテラシーの有無とは本質的には関係ありません。コミュニケーションの本質について理解しているかどうか、それが分岐点になると僕は思っています。(本文より)
テレビ視聴率の低下、新聞部数の激減、出版の不調----、未曽有の危機の原因はどこにあるのか?
「贈与と返礼」の人類学的地平からメディアの社会的存在意義を探り、危機の本質を見極める。内田樹が贈る、マニュアルのない未来を生き抜くすべての人に必要な「知」のレッスン。神戸女学院大学の人気講義を書籍化。

僕は自分の書くものを、沈黙交易の場に「ほい」と置かれた「なんだかよくわからないもの」に類すると思っています。誰も来なければ、そのまま風雨にさらされて砕け散ったり、どこかに吹き飛ばされてしまう。でも、誰かが気づいて「こりゃ、なんだろう」と不思議に思って手にとってくれたら、そこからコミュニケーションが始まるチャンスがある。それがメッセージというものの本来的なありようではないかと僕は思うのです。(本文より抜粋)

内田先生の著作を読むと、いつも、「ああ、こういうことを、僕は誰かに言葉にしてほしかったんだ」と思うのです。
この『街場のメディア論』にも、そんな珠玉の言葉が詰まっています。
なぜ僕は、テレビや新聞といった「大きなメディア」に「うさんくささ」を感じずにはいられないのか?
その一方で、メディアの強い口調で批判する、ネット上の「名無しさん」たちに不快になるのか?

 だから、ほんとうに「どうしても言っておきたいことがある」という人は、言葉を選ぶ。情理を尽くして賛同者を集めない限り、それを理解し、共感し、同意してくれる人はまだいないからです。当然ですね。自分がいなくても、自分が黙っても、誰かが自分の代わりに言ってくれるあてがあるなら、それは定義上「自分はどうしてもこれだけは言っておきたい言葉」ではない。「真に個人的な言葉」というのは、ここで語る機会を逸したら、ここで聞き届けられる機会を逸したら、もう誰にも届かず、空中に消えてしまう言葉のことです。そのような言葉だけが語るに値する、聴くに値する言葉だと僕は思います。
 逆から言えば、仮に自分が口をつぐんでも、同じことを言う人間がいくらでもいる言葉については、人は語るに際して、それほど情理を尽くす必要がないということになる。言い方を誤っても、論理が破綻しても、言葉づかいが汚くても、どうせ誰かが同じようなことを言ってくれる言葉であれば、そんなことを気にする必要はない。「暴走する言説」というのは、そのような「誰でも言いそうな言葉」のことです。
 ネット上に氾濫する口汚い罵倒の言葉はその典型です。僕はそういう剣呑なところにはできるだけ足を踏み入れないようにしているのですけど、たまに調べ物の関係で、不用意に入り込んでしまうことがあります。そこで行き交う言葉の特徴は、「個体識別できない」ということです。「名無し」というのが、2ちゃんねるでよく用いられる名乗りですけど、これは「固有名詞を持たない人間」という意味です。ですから、「名無し」が語っている言葉とは「その発言に最終的に責任を取る個人がいない言葉」ということになる。
 僕はそれはたいへん危険なことだと思います。攻撃的な言葉が標的にされた人を傷つけるからだけではなく、そのような言葉は、発信している人自身を損なうからです。だって、その人は「私が存在しなくなっても誰も困らない」ということを堂々と公言しているからです。

(中略)

 同じことがメディアの言葉についても言えると僕は思っています。メディアが急速に力を失っている理由は、決して巷間伝えられているように、インターネットに取って代わられたからだけではないと僕は思います。そうではなくて、固有名と、血の通った身体を持った個人の「どうしても言いたいこと」ではなく、「誰でも言いそうなこと」だけを選択的に語っているうちに、そのようなものなら存在しなくなっても誰も困らないという平明な事実に人々が気づいてしまった。そういうことではないかと思うのです。

マスゴミ」を連呼してメディアを批判している「名無しさん」たちは、「誰でも言いそうなこと」を「最終的に責任を取る個人がいない状態で」発信しているという意味では、「マスコミ」と似たようなものなのです。
いや、マスコミの場合は、最終的には「誰かが詰め腹を切らされる」こともありますから、「名無しであることを公言する」というのは、それだけで、「自分は無責任で、どうでもいい人間である」ということをアピールしているわけです。
彼らは、「マスゴミ」以上に「マスゴミ的」な存在であることを自覚できない。

先日、芥川賞を受賞した、赤染晶子さんの『乙女の密告』に、こんな一節がありました。

「ミカコ。アンネがわたしたちに残した言葉があります。『アンネ・フランク』。アンネの名前です。『ヘト アハテルハイス』の中で何度も書かれた名前です。ホロコーストが奪ったのは人の命や財産だけではありません。名前です。一人一人の名前が奪われてしまいました。人々はもう『わたし』でいることが許されませんでした。代わりに、人々に付けられたのは『他者』というたったひとつの名前です。異質な存在は『他者』という名前のもとで、世界から疎外されたのです。ユダヤ人であれ、ジプシーであれ、敵であれ、政治犯であれ、同性愛者であれ、他の理由であれ、迫害された人達の名前はただひとつ『他者』でした。『ヘト アハテルハイス』は時を超えてアンネに名前を取り戻しました。アンネだけではありません。『ヘト アハテルハイス』はあの名も無き人たちすべてに名前があったことを後世の人たちに思い知らせました。あの人たちは『他者』ではありません。かけがえのない『わたし』だったのです。これが『ヘト アハテルハイス』の最大の功績です。ミカコは絶対にアンネの名前を忘れません。わたし達は誰もアンネの名前を忘れません」

「名無しさん」というのは、ある意味、「自分で自分の名前を捨ててしまった人間」なんですよね。
そういう人間が存在していることそのものに、僕は不安を感じずにはいられません。
それは、僕があまりにも自意識過剰だからなのかもしれませんが。
いやまあ、ここまで堅苦しく考える必要もなく、多くの人は、「ちょっとした気晴らし」のつもりで「名無しさん」になって、つかの間の「自由」を得ているのかもしれませんけど(もちろん僕も「名無しさん」になったことありますよ。でも不思議だよね、「名無しさん」を名乗っているにもかかわらず、誰かに構ってもらえると嬉しくなるのはなぜなんだろう?)


この新書で語られている、「医療と教育に対して、メディアが集中的なバッシングを行う理由」にも、なるほどなあ、と考えさせられました。
「簡単には変わらないし、変わるべきでもない。だからこそ、(「情報」を売るためは「変化」があったほうが好ましい)メディアの攻撃はそこに集中した」

 僕がこれまで機会あるごとに言ってきたのは、市場原理を導入し、子どもが「消費者」で、学校が教育商品の「売り手」であるとする構図で教育をとらえるなら、教育は致命的なしかたで損なわれるだろうということです。
 学びの場に立とうと思うなら、子どもは決して自らを消費者として規定してはなりません。それは消費者というものの条件を考えればすぐにわかることです。医療崩壊のところでも言いましたけれど、消費者とは「もっとも少ない代価で、もっとも価値のある商品を手に入れること」を目標とする人間のことです。
「代価」とは、学校教育においては「学習能力」のことです。そこにはいろいろなものが含まれます。授業を聴くのも、自宅学習するのも、校則を守ったり、制服をきちんと着たりするのも、先生に敬語を使うのも、子どもになんらかの努力を要求するものは、すべて「代価」にカウントされます。
 それをいかに切り下げるか。
 いかに少ない「代価」を以て、試験のハイスコアや、見栄えのいい最終学歴を手に入れるか、それが消費者としては最優先の課題になります。
 そのせいで、僕たちは「賢い消費者」として学校教育期間を通過してきた子どもたちの「末路」の無数の事例を周囲に見ることができます。

(中略)

 先日、うちの大学で、レポート提出期限の変更を先生が告知していた日に欠席していたせいで提出期限に遅れた学生がいました。先生が遅れを理由にレポート受理を拒むと、その学生は猛然と抗議行動を起こしました。教務課のカウンターで、電話口で、もっぱら教師にのみ問題があり、自分には非がないことを言い立て、教務課のみなさんはあやうくノイローゼになりそうでした。
 僕がそのとき不思議に思ったのは、それほど単位が欲しいのなら、どうしてこれほどまで欠席したのかということでした。彼女は講義のあった13週のうち6週を欠席していたのです。にもかかわらず、この学生は「単位を取ること」については法外なまでに貪欲でした。これを説明できるロジックを僕は一つとして思いつきません。
 彼女においては「できるだけ少ない学習時間で単位を取る」こと、つまり「高い費用対効果を達成する」ことが「授業を受けて知識を得る」ことよりも優先されていたのです。そして、抗議のために費やす時間は「学習努力」に算入されないので、そのために何時間を割いても、彼女が「賢い消費者」であることには抵触しない。彼女は「買い物ゲーム」に熱中していたのです。

この話、内田先生の視点で読むと、「なんてひどい学生なんだ」と憤りすらおぼえますが、そういう僕だって、学生時代に「出席しなくても単位をくれる授業」を選んだり、「試験勉強は過去問のみ」だったりしたんですよね。そしていまでも「専門医の維持に必要な単位を維持するために学会に出席して、参加費を払って少し聴くだけで観光に出かける」なんてこともあります。
ここまで猛烈な抗議行動をやるほどの気概はないでしょうが、彼女の「こんなはずじゃなかった」という気持ちは、なんとなくわかるんですよ。
僕が同じ立場だったら、「もっと欠席しているのに、要領よく立ち回って単位を取った人もいるのに……」とは思うはず。
多くの人間は、「もっとラクな道があることがわかっているのに、あえて苦労をすることを選べる」ようにはできていないのです。
こういうのって、後から考えれば、「その抗議行動に費やす時間があるのなら、ちゃんと授業に出ておけばよかったのに」としか言いようがないのだけれど、そんなふうに後悔するのが「人間」なのかな、とも感じます。
「普通の人」が生き延びていくためには、こういうときに「自分が悪かったんだから、まあしょうがない」と切り替えることができるかどうかが、重要なのかもしれません。

そういえば、病院で仕事をしていると、ずっとクレームばかりつけている人もいるよなあ。
僕自身としては、病院とか医者と患者には「相性」というのはあると思うので、そんなに気に入らないのなら、自分で好きな病院に行けばいいし、その権利があると思うのだけれども、その人たちは、なかなか病院を変えようとはしないのです。
そして、「じゃあ、先生がもっと良い病院を紹介してください」などと言ってくることもあります。
うーん、この人は「自分が信頼できない医者が紹介する病院」を信頼できるのか?

こういう「クレーム体質」みたいな人は増えてきているし、それには「とりあえずクレームをつけてみるのが『お得』なのだ」という意識があるように僕には思われます。
そして、そういうクレームに対して、「とにかく真摯に対応すべきだ」という思い込みも存在しているのです。
実は、「すぐにクレームをつけてくる人だと周囲に思われるコスト」というのは、ちょっとした「お得」などは霞んでしまうくらい、大きなものなのかもしれないのに。

この新書、文庫化されている内田先生の著書(『下流志向』や『疲れすぎて眠れぬ夜のために』など)と比べると、講義をベースにしていることもあり、コンパクトにまとまっており、使われている言葉もわかりやすいです。
その一方で、これまで内田先生の著作を読んできた人にとっては、「同じ内容の繰り返し」「浅く広く語っている」ように感じられるかもしれません。

とりあえず、いままで内田先生の本を読まれたことがなければ、「最初の一冊」としては、かなりオススメできるのではないかと思います。

最後に、この新書の中で、僕がもっとも印象に残ったところ。

 結婚は入れ歯と同じである、という話があります。これは歯科医の人に聞いた話ですけれど、世の中には「入れ歯が合う人」と「合わない人」がいる。合う人は作った入れ歯が一発で合う。合わない人はいくら造り直しても合わない。別に口蓋の形状に違いがあるからではないんです。マインドセットの問題なんです。
 自分のもともとの歯があったときの感覚が「自然」で、それと違うのは全部「不自然」だから厭だと思っている人と、歯が抜けちゃった以上、歯があったときのことは忘れて、とりあえずご飯を食べられれば、多少の違和感は許容範囲内、という人の違いです。自分の口に合うように入れ歯を作り替えようとする人間はたぶn永遠に「ジャストフィットする入れ歯」に会うことができないで、歯科医を転々とする。それに対して、「与えられた入れ歯」をとりあえずの与件として受け容れ、与えられた条件のもとで最高のパフォーマンスを発揮するように自分の口腔中の筋肉や関節の使い方を工夫する人は、そこそこの入れ歯を入れてもらったら、「ああ、これでいいです。あとは自分でなんとかしますから」ということになる。、そして、ほんとうにそれでなんとかなっちゃうんです。
 このマインドセットは結婚でも、就職でも、どんな場合でも同じだと僕は思います。最高のパートナーを求めて終わりなき「愛の狩人」になる人と、天職を求めて「自分探しの旅人」になる人と、装着感ゼロの理想の入れ歯を求めて歯科医をさまよう人は、実は同類なんです。僕がこのキャリア教育科目でみなさんにぜひお伝えしたいのは、このことです。

少なくとも、「740円+税+この新書を読むのに必要な時間」以上の価値はある新書だと思います。


参考リンク(1):「『素直に承諾したものが損をする』というシステムは絶対に違う」(『活字中毒R。』2009年12月4日)

参考リンク(2):「マスゴミ」なんて、バカバカしい。(『琥珀色の戯言』2009年6月19日)

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