琥珀色の戯言

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死刑絶対肯定論 ☆☆☆☆


死刑絶対肯定論―無期懲役囚の主張 (新潮新書)

死刑絶対肯定論―無期懲役囚の主張 (新潮新書)

出版社/著者からの内容紹介
 哀しい事実だが、犯罪者のほとんどは反省しない。監獄法の改正後、圧倒的に「自由」になった刑務所では、今日も受刑者たちの笑い声が響いている。裁判では頭を垂れるも内輪では「次は捕まらないよ」とうそぶく彼らを前に、何をすれば良いのか。犯罪者を熟知する著者は、彼ら自身を「死」と向き合わせるために「執行猶予付き死刑」を導入せよ、と説く。現役の無期囚が塀の内側から放つ、圧倒的にリアルな量刑論。

刑務所に入れば、人は「反省」するのだろうか?
僕はずっとそういう疑問を抱いています。
そりゃ、「娑婆」に比べたら自由はきかないし、食事だって娯楽だって劣っているに決まっています。
でも、人間きつい環境にいたら、「自分の罪と向き合って、反省する」とは限らないですよね。
「もう刑務所に入るのは嫌だから、犯罪はやめよう」と考えかたを変えることがあっても、それは「反省している」というよりは、「イヤなことを避けるように学習する」だけのことなのではないだろうか。

この『死刑絶対肯定論』の著者の美達大和さんは、2人を殺めて、「無期懲役」の判決を受け、服役中なのだそうです。
「罪に向き合い、出獄することを放棄した」という美達さんは、彼のような立場の人間にしか書けない「刑務所のなかの犯罪者たちの実像」を赤裸々に描写しています。

 当所は再犯刑務所ですので、ほとんどの受刑者には服役歴があります。稀に初犯受刑者もいますが、多くは刑務所での生活を何度か経験し、自分が逮捕されることによって、刑務所の門をくぐることは必至と知っているが故に、服役を逃れる為、被害者に暴行を加えたのです。社会で良識と常識を持って生活している皆さんからすれば不可解と思われるでしょうが、受刑者達には窃盗自体は悪いことではない、という意識が根底にある為に、己の非は考慮していません。
 自分が窃盗に侵入したにも拘わらず、被害者に非があるかのように罵倒し、己の罪を認めないという姿は、当所では『当たり前』のことです。
「あんな所にいるからだ」
「向かってくるからだ」
「騒ぐなって言ったのに大声出しやがって」
「盗られたってどうせ会社の物なのに邪魔するからだ。おかげで、こっちがこんなところに長くいることになった。被害者は俺だ」
「俺の人生、なくなったぞ」
 こうしたセリフが、受刑者同士の会話に普通に頻出します。

 再犯を繰り返す者にとって、窃盗自体は犯罪に該当しません。社会で生活するうえでの基本動作(仕事)です。何度も服役している者達にとって、窃盗は域を吸って吐くのと同じくらいに、心身に馴染んだ行為になっているのです。命を奪う訳ではないし、大したことではない、という幻想が強固に成立しています。
「有る所から取って何が悪いの?」
「取られたからって死ぬ訳じゃあるまいし」
「すぐに飯が喰えなくなるってことでもないでしょう」
「管理の仕方が悪いから。これで気を付けるでしょう」
 罪悪感は皆無であり、有る所から盗むことに天から贖宥状か認可でも授かっているような口吻です。

 工場や居室では、受刑者同士が自分の犯行について話す時がありますが、全く反省の情もなく、被害者の悲惨な状況を、自分の暴力性を誇示したいのか、楽しげに語る者がいて、周りも遊びの話でも聞くような雰囲気で聞いています。或る日、同囚達が殺された被害者に対して、「そういう運命だったんだ、そいつは」と嘲笑うかのように言った時には、鬼畜という言葉が私の胸に去来しました。

こういう「仲間」ばかりがいるところに長年服役していて、本当にその後の人生にとってプラスになるのでしょうか?
僕は「死刑存置派」なのですが、こういうのを読むと、「更生」なんて、寝言なんじゃないか、とか、やっぱり考えてしまうのです。
彼らが「どうしようもない人間」なのか、本質的に「人間って、そんなもの」なのか?


僕たちは、どんなにつらいことや悲しいことがあっても、そのことばかり、何日も、何か月も考え続けられるようにはできていません。
失恋で大きなショックを受けても、何日かすれば御飯は食べられるし、お笑い番組を観て、微笑んだりもするでしょう。
どんなに「反省」している人でも、ずっと「反省」ばかりはできない。
美味しいものを食べれば頬が緩むし、朝深呼吸すれば、空気がおいしいと感じる瞬間もある。
服役するのは、全体としてはつらいことでしょうけど、刑務所の中にだって、その人なりに「幸福な瞬間」は、必ずあるはずです。
しかしながら、殺人事件の被害者にとっては、そういう「幸福な瞬間」は、二度と訪れないのです。
生命を奪われた被害者に「再生」が可能であれば、犯罪者にも「更生」の機会が与えられても良いだろうけど、実際には、「加害者の更生」ばかりが重視されているのは、すごくアンバランスだと思います。
ましてや、美達さんによると、「服役している犯罪者のなかで、本当に反省しているのは、せいぜい1〜2%」だそうですし。

 私が反省について訊きますと、ニヤニヤとして、私の顔を見て、こう言う者もいました。
「美達さん、意外と堅いですね。大丈夫ですよ、同囚同士、反省なんて言わなくても仮釈(放)には関係ないですから」
「マジですか!? 反省なんて考える奴、いないですよ、ハハハ」
「反省はいりません。だって、自分らは体で代償払ってんですからね」
 挙げたらキリがありませんが、針小棒大に述べているのではなく、在るがままに、を心掛けると、こうなるのです。もっと具体的に言いますと、反省している者は1、2パーセントというのが、せいぜいです(2は多すぎるかも知れません)。本当に、みなさんにこの真実を知って欲しいと切実に思っています。

そもそも、一部の「善意の人たち」が信奉している「反省至上主義」には違和感がすごくあります。
「まだこの被告は自分の罪に対して反省していないから、その精神状態で死刑にすべきではない」
ええっ、何それ? もし僕がその被告なら、そんなこと言われたら絶対に反省なんてしない。
だって、逆にいえば「反省したら死刑」なんですよ。反省してても、しないフリをすると思う。

こういう話をすると、「冤罪の場合、取り返しがつかない」ことを主張する方がいらっしゃいますが、僕はいまの日本の司法レベルであれば、「もし自分が冤罪で死刑になる可能性がゼロでなくても、死刑存置が妥当と考えている」のです。
最近死刑判決が出ているものはすべて、さまざまな証拠から「被告が犯人であることは間違いないと推定されるもの」ばかりです。
池田小学校の悲惨な事件で、「あの男は冤罪かもしれないから、死刑は不当」だと言えますか?
むしろ、「これでも無期懲役止まり?」なんて感じることのほうが多いのです。

僕は別に、なんでもかんでも死刑にしろ、と言っているわけではありません。
そもそも、死刑を選択せざるをえないような残虐が犯罪が無くなれば、『制度』があったって、死刑は無くなりますよ。
ただ、それだけのことです。

ところで、この著者に殺された被害者の遺族は、加害者がこんなふうに「啓蒙活動」を行っていることを、どう思っているのでしょうか。
(「美達大和」は仮名で、「自分のこと」の詳細は語らないようにされているようですが)
ずっと刑務所の中だから「印税」のこと関係ないとしても、自分の大切な人を殺したヤツが、こうして話題になったり、励ましの手紙をもらったりするのは、やっぱりいたたまれないことだろうなあ、と僕は思いますし、「罪を償う」っていうのはどういうことなんだろうなあ、と考え込んでしまうのです。
そもそも、「人を殺す」という罪は、「償える」ものなのだろうか?


死刑廃止派」が大好きな「終身刑」についての著者の見解はとても興味深いです。

 LB級施設にいる私は、殺人犯達の思考の普遍性について知っているつもりですが、ただでさえ反省しない彼らです。終身刑となれば、それこそ外から刺激を与え、反省や改悛の情を促したとしても全く反応しないことは明らかです。出所できず、将来がないのに、どうして反省するのか、ということになるでしょう。本来、将来があろうとなかろうと、自分の醜行について省みることは受刑者としての義務・使命だと思いますが、常に己の利得のみを考えている多くの殺人犯達は一顧だにしないのです。

(中略)

 また、人権人権と叫ぶ人達が、その人権を尊重し、死刑を廃止する前提として終身刑を創設することに、強い欺瞞を感じます。社会復帰の希望がないまま長い間生きるということが、どのようなことかわかっていないのではないでしょうか。

やっぱり、「死刑」と「終身刑」は全くの「別物」だと僕も思います。
被害者遺族にとっては、「あいつがまだ生きて、ときには美味しいものを食べたり、笑ったりしている」というだけでも、やるせないことでしょうし。

「死刑」について考えている人、とくに「死刑廃止派」には、一度読んでみていただきたい新書です。

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