琥珀色の戯言

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第143回芥川賞選評


文藝春秋 2010年 09月号 [雑誌]

文藝春秋 2010年 09月号 [雑誌]

先月の「文藝春秋」には、受賞作の赤染晶子さんの『乙女の密告』とともに、芥川賞の選評が掲載されていました。
遅くなりましたが、恒例の抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)。

乙女の密告

乙女の密告

↑受賞作への僕の感想はこちらです。

小川洋子
 アンネの密告と、女子大生の間の告げ口とでは恐怖のレベルが違いすぎる、という意見もあった。そう、確かにその通りだと思う。ただ、赤染さんはレベルの違う恐怖の間をつなぐ、細い糸を丹念にたどっている。みか子が恐れたのは、バッハマン教授との関係を乙女たちに誤解されることだった。他者から分類され、排除されることだった。それは、黄色い壁によって分類され、強制収容所へと排除されるアンネの恐怖と、決して無縁ではない。
 分類はごく目立たないささやかなレベルからスタートする。ユダヤ人も最初からガス室に送り込まれた訳ではない。ユダヤ人は自転車に乗ってはいけない、公園に立ち入ってはいけない、ラジオを聴いてはいけない……といった小さな分類の積み重ねが、最終的にガス室にまで行き着いた。だとしたら、みか子とアンネの恐怖は間違いなくつながり合っている。

(中略)

アンネの日記』を扱いながら、そこにユーモアを実現した赤染さんに、心からの敬意を表したい。

黒井千次
 シリン・ネザマフィ氏の「拍動」は、人物の描き方が平坦に過ぎる。切実なモチーフ、大切なテーマとわかっても、小説は人物を通してそれが展開されなけば読む者に反応を起こさせない。小説の人物は、特に語り手の主人公は、もっと揺れて動かねばなるまい。

村上龍
 わたしは、当選作となった『乙女の密告』を推さなかった。題材そのものが苦手ということの他に、物語の核となる「ユダヤ人問題」の取り上げ方について違和感を持ったからだった。

(中略)

 わたしが違和感を持ったのは、アンネ・フランクのユダヤ人としてのアイデンティティについて、主人公が独自の解釈を示し、それをユダヤ人だと思われる教授が肯定するシーンだった。読みようによっては、「今、わたしが一番望むことは、戦争が終わったらオランダ人になることです!」とアンネ・フランクが日記に記した一文を批判しているようにも受け取れる。
 誰がアンネ・フランクを密告したか、という有名な謎があり、この作品ではそれが「名前のないわたし」、つまり一般的な「人々」であって、その中には主人公の「わたし」も含まれる、という構図になっている。だが、文章が正確さを欠いているためにわかりにくく、誤解を生みやすい。人種差別は絶対的な悪だが、悲しいことに誰もが密告者になり得るという真実は、もっと緻密に、そして抑制して書かなければいけないと思う、そんな小難しいことにこだわらずに、もっと単純に「乙女の世界」を追体験すればいいという他の選考委員の意見もあったが、残念ながら、単なる好みの問題として、わたしは感情移入ができなかった。

池澤夏樹
 一個の人格が何者であるかを決めるのは結局のところ本人でしかない。民族は生物学ではなく自覚によって決まる。それを外から決めようとするところからアウシュビッツが始まる(我々の職場や教室に小さなアウシュビッツ、小さなパレスチナ、小さなヒロシマはないだろうか?)。

川上弘美
 『乙女の密告』。全体にただよう諧謔が、とても好きです。バッハマンと貴代の二人が、ことによかった。作中で大きな比喩として使われているアンネ・フランクの日記に記述されている苦しみは、アイデンティティーを否定しなければアンネが生きてゆけなかった、というものです。その苦しみと、「乙女」であることについての主人公のアイデンティファイのしかたのつながりにかんしては、わたしはほんの少しの危惧を感じました。「乙女」という言葉だけで、「乙女性」を表現しているから、ではないでしょうか。もう少し、「乙女」というものの内実にかんして、深く表現してほしかったというのは、作者の力を評価するがゆえの願いです。

石原慎太郎
 当選作となった『乙女の密告』は、アンネ・フランクという世界に膾炙した悲劇の主人公の最後の秘密にオーバーラップした、どこかの外語大学の女子学生間のあるいきさつだが、今日の日本においてアンネなる少女の悲しい生涯がどれほどの絶対性を持つのかは知らぬが、所詮ただ技巧的人工的な作品でしかない。こんな作品を読んで一体誰が、己の人生に反映して、いかなる感動を覚えるものだろうか、アクチュアルなものはどこにも無い。

山田詠美
 『拍動』。描写が、いちいちくど過ぎる。<色気たっぷりの茶色い艶を放つおでんの卵のつるんとした表面に箸をぐさっと刺し、その弾力を確かめてから、舌の上で転がし、汁の染み具合を味わいたい>…って…さっさと食べないと、おでん、冷めちゃうよ。あと、<垂れた目尻の曲線に合わせ、大粒の涙が遠慮なく軌道に乗り、頬を下り始めた>とか。才能あり過ぎだよ、この涙。

(中略)

『乙女の密告』。<スピーチでは自分の一番大事な言葉に出会えるねん。それは忘れるっていう作業でしか出会えへん言葉やねん>。前半の、この二つの文だけで、受賞作に相応しいのでは? と嬉しくなってしまった。久し振りに、言葉が一番! の小説を読んだ気持。

高樹のぶ子
(『乙女の密告』について)
 知的でテクニカルな才能を感じさせるけれど、生死のかかったアンネの世界に比べて、女の園の出来事が興味的遊戯的で、違和感がぬぐえなかった。頭で考えられ、嵌め込まれた二つの世界だが、差別が発生する本質は同じだ、という他の委員の意見が印象に残った。

宮本輝
(『乙女の密告』について)
 無論、小説であるから、いかなる戯画化も自由であるし、作者の推論の飛躍も受け入れるべきであろう。
 しかし、ナチス・ドイツのあの時代に、隠れ部屋で息をひそめて生きて、ついに収容所で死んだ十四歳のアンネの居場所を密告したのが、ほかならぬアンネ自身であったという小説には、私はその造りが正しいか正しくないかの次元とは別の強い抵抗を感じて授賞に賛同しなかった。


今回は、候補作・候補者が地味で、受賞作が比較的順当に決定したにもかかわらず、かなり長い選評を書いていた選考委員が多かったのが印象的でした。
小川洋子さんは、以前から『アンネの日記』を「人生を変えた一冊」として挙げておられるので、小川さんが絶賛されていることで、『乙女の密告』は受賞にかなり近づいたのだろうな、と思います。
僕はこれを読みながら、「選評王」(と僕が勝手に思っている)村上龍さんが、「文章が正確さを欠いているためにわかりにくく、誤解を生みやすい」と書かれているのに、ちょっと驚いたんですよね。いやこれ、村上さんからいうと「正確さを欠いている」のかもしれないけれど、「わかりにくい」とは思えないし、これ以上わかりやすく書いたら、この作品の「格調」みたいなものが失われてしまうのではないか?と。
でも、その後の選評で、宮本輝裏選評師が、「十四歳のアンネの居場所を密告したのが、ほかならぬアンネ自身であったという小説」と評しているのを読んで、悶絶してしまいました。
いや、こういう人がいるから、「もっとわかりやすく書いたほうがいい」ってことなんですね選評王。
しかし、宮本さん、『乙女の密告』の最後5ページくらいしか読まずに選評を書いたのではなかろうか。小学生がやっつけ仕事で巻末の「解説」だけ読んで書く、夏休みの宿題の「読書感想文」みたいだ……

今回も石原慎太郎さんは、見事にかましてくれているわけですが、ただ、今回の選評、1ヵ月経ってあらためて読み返してみると、実は、「所詮ただ技巧的人工的な作品でしかない。こんな作品を読んで一体誰が、己の人生に反映して、いかなる感動を覚えるものだろうか、アクチュアルなものはどこにも無い」という指摘は、けっこう正鵠を得ているのではないかと思います。
たしかに、『乙女の密告』は、「うまく書けているなあ」という感嘆をもたらす作品ではあるけれど、これを読んだからといって、現実の生活に何かが反映されるという性質のものではありません。
小説とはそういうものだ、とも思うけれども、やっぱり、芥川賞には「時代性」みたいなものも、ちょっと期待してしまうんですよね。

個人的には、今回のベスト選評は、山田詠美さんの「おでん、冷めちゃうよ」でした。

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