琥珀色の戯言

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ゲームの父・横井軍平伝 ☆☆☆☆☆


ゲームの父・横井軍平伝  任天堂のDNAを創造した男

ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男

ウルトラハンドゲーム&ウオッチゲームボーイバーチャルボーイ…。京都の花札メーカーに就職した青年の発想力が、任天堂を独創的な世界企業へ押し上げていった。伝説的天才開発者・横井軍平の発想哲学を紹介する。

いまや任天堂の「看板」といえば宮本茂さんなのですが、その宮本さんの「師匠」が横井軍平さんです。
その横井さんの発想哲学から、任天堂全体の哲学となった「枯れた技術の水平思考」、そして、横井さん自身の人生について語られた本。
この本のなかで、「枯れた技術の水平思考」について、2006年に『PC Watch』に掲載された、こんな任天堂・岩田社長のインタビューが引用されています。

Wiiの成功の秘密について)

質問者:国内ゲーム市場の縮小と、開発規模の増大によるコストの高騰。この2つは、日本のゲーム業界の課題として多くの方が挙げています。それを打開するために、Wiiでは、枯れたアーキテクチャを使うことを選択したと。

岩田社長:任天堂にはもともとそうした考え方がありました。ゲームボーイを作った横井(横井軍平氏、任天堂に在籍したゲーム機開発者)が、「枯れた技術の水平思考」という言葉を残しています。枯れた技術を使い、アイディアで勝負するんだと。宮本(宮本茂氏、任天堂専務)も、横井が師匠なので、その考えを受け継いでいます。たまたま、こういう時代に、自分が社長という役割になってみたら、社内にそういう伝統があった。それなら、そういう社風の任天堂がその役に行くべきだと。

ニンテンドーDSWiiも、同世代に誕生した他メーカーのハードに比べると、けっして性能がすぐれているわけではありません。
しかしながら、タッチパネルやWiiコントローラーなどで「操作感覚を新しくすること」により、任天堂のハードは、大ヒットとなり、任天堂はふたたび「黄金時代」を迎えました。
そういえば、その前に「ゲーム機の操作感覚の革命」を起こした「十字キー」の開発者も、この横井さんなんですよね。

とにかく、この横井軍平という人は、この本を読んでいるだけでも、そのたたずまいが想像できるほど、ダンディで面白い人なのです。
でも、横井さんは、同志社大学工学部を卒業したにもかかわらず、(成績が思わしくなくて)「任天堂」という「花札とトランプの会社」に就職したことで、同級生にたいして、コンプレックスを抱いていた時期もあったそうです。
枯れた技術の水平思考」という発想の裏には、「自分たちの仕事は、最先端の技術を追究することではない」という寂しさと、「それでも、より多くの人に使ってもらえるのは、自分たちが開発していたもののほうだ」というプライドが同居していたのです。

横井さんは、「任天堂」という会社を「ゲーム&ウォッチ」で大きく躍進させ、ファミコン後には、「ゲームボーイ」というニンテンドーDSが登場するまでは、「世界でいちばん売れたゲーム機」を開発します。
その「ゲームボーイ」について、横井さんは、こんな話をされていたそうです。

横井:当時、カラー液晶テレビなんかもありましたけど、電池寿命が1時間半だとかだったんですね。しかも、バックライト液晶というのは屋外の明るいところでは見えないんです。ですから、モノクロという選択しかなかった。
 私はいつも「試しにモノクロで雪だるまを描いてごらん」と言うんです。黒で描いても、雪だるまは白く見えるんですね。リンゴはちゃんとモノクロでも赤く見える。

横井さんは、ずっと、「人間の、とくに子どもの『想像力』」というのを信じていた人だったと僕は思うのです。
そして、横井さん自身は、ずっと、任天堂というゲームメーカーの中にいながら、「いかにして、テレビの画面から子どもたちをはみ出させるか」を追い求めていた人のように見えます。
コスト的にかなり厳しかったゲームボーイで、最後まで「通信ポート」を残したのも、そんな横井さんの判断だったのです。

 横井にとって「遊び」とは、何人かの友人が集まって遊ぶことで、一人で遊ぶのは友だちがいなくてしかたのないときにすることだった。「コンピューターは難しいから、嫌いや」という横井の言葉は、ただ技術的なことだけを言っていたのではないように思う。コンピューターと対戦すると、どうしても一人遊びになってしまう。そこに横井の生理は拒否反応を示していた。

 しかし、横井さんは、ゲームボーイでの大成功のあと、ファミコンスーパーファミコンという任天堂の「本流」から離れ、あの「伝説の失敗ハード」である「バーチャルボーイ」の開発に没頭していきます。
 1995年、そのバーチャルボーイの製品発表会の際に、ある技術者が横井さんに「ようやくここまできましたね。おめでとうございます」と声をかけたところ、横井さんは「なに言っとるんや。ヒリヒリやで」と苦虫を噛みつぶしたような顔で、声を潜めて言ったそうです。
 開発した本人も、このハードが売れないことは十分に予想していたのです。
 それでも、立場上、横井さんは、バーチャルボーイから逃げることはできなかった。

 その後、横井さんは、ニンテンドーを退社し、コトを設立、「ワンダースワン」の開発にもたずさわりますが、志半ばにして、交通事故で世を去ってしまいます。
 まだ、56歳の若さでした。

 結局のところ、僕が横井軍平という人物に惹かれるのは、そのセンスの良さや業績はもちろんなのですが、これだけの成功をおさめたにもかかわらず、その後半生は、世界というか、周囲の環境の変化になかなかついていけず、もがき続けていたところなのかもしれません。
 横井軍平という人は、亡くなった当時は、「このテレビゲーム時代に、外で遊ぶことにこだわったり、液晶はモノクロで十分だと考えていたりするような、過去の人」だという印象がありました。
 子どもたちも、「モノクロの液晶で『赤いリンゴ』を想像することよりも、赤い色がついたカラー液晶で遊ぶこと」を選んだのです。
 そういう意味では、横井さんには「時代に裏切られた悲劇」がついてまわるようにも思われるのです。


 でも、いま、『ポケモン』で嬉々として公園で交換に興じる子どもたちや、みんなで集まって『モンスターハンターポータブル』で遊ぶちょっと大きな子どもたちの姿をみると、「横井軍平は、本当は、早く生まれすぎた人」だったようにも思えます。それとも、「歴史は繰り返す」ということなのでしょうか。
 少なくとも、いまこうして携帯ゲーム機で遊んでいる子どもたちの記憶には、僕が小さい頃に友達を公園でメンコや秘密基地づくりで遊んだのと同じように、「友達と『モンハン』で遊んだこと」が刻まれていくはずです。
 やっぱり、みんなで遊ぶのが面白い、という場所に、ゲームもまた、還ってきたようです。
 もちろん、「ひとりで遊べるゲーム」のほうが、はるかに多いのだとしても。

 横井軍平という人は、まさに「任天堂の歴史の象徴」であり、この本を読むと、「なぜ任天堂は、トランプや花札をつくっていた小さな会社から、あれだけの巨大なゲームメーカーになれたのか?」がわかるような気がします。
 そして、その繁栄に最も貢献したはずの人物が、その「大きすぎる成功によって、小回りがきかなくなったこと」に困惑し、行き詰ってしまったという悲劇も伝わってくるのです。

 任天堂を、そして、テレビゲームを愛するすべての人に。
 

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