琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

ノルウェイの森 ☆☆☆☆



あらすじ: ワタナベ(松山ケンイチ)は唯一の親友であるキズキ(高良健吾)を自殺で失い、知り合いの誰もいない東京で大学生活を始める。そんなある日、キズキの恋人だった直子(菊地凛子)と再会。二人は頻繁に会うようになるが、心を病んだ直子は京都の病院に入院してしまう。そして、ワタナベは大学で出会った緑(水原希子)にも惹(ひ)かれていき……。

映画『ノルウェイの森』公式サイト

2010年21本目の劇場鑑賞作品。
公開初日の土曜日のお昼過ぎの上映で観てきました。
観客は70〜80人程度。
高校生くらいのカップルから、還暦に近い御夫婦まで、かなり幅広い客層です。
ただ、ひとりで観に来ている人は、週末ということもあって、少なかった気がします。

この『ノルウェイの森』が映画化されるという話を聞いて、僕は正直「本当に完成して、観ることができるのだろうか?」と思っていました。
原作者の村上春樹さんは、原則的に自作の映像化を認めない人ですし、「日本でいちばん売れた小説」(最近また『世界の中心で、愛をさけぶ』から、1位を奪回したらしいです)であり、思い入れが強い人が多いだけに、途中でダメになってしまうのではないか、と。
それに、「映画で2時間にまとめたら、単なる『純愛映画』になってしまいそう」だと危惧していたのです。

観終えた直後の、僕の率直な感想。
「まあ、こういう解釈というか、映像化も有り、なんだろうな」

もちろん(って言うのやめてって頼んだじゃない!)、大満足はしていません。でも、17歳で最初にこの『ノルウェイの森』という作品を読み、「大学生って、こんなに好き放題セックスしまくれるのか……」ということに驚いた非モテ男子高校生だった僕は、もうすぐ40歳という年齢になりました。

たぶん、原作を最初に読んでからすぐに、この『映画・ノルウェイの森』を観たら、「なんじゃこりゃあ!」と激怒して、席を蹴って映画館を出てきたと思うんですよ。
菊地凛子を直子に起用したのは、脱ぎまくりのセックス・シーンがあるからじゃなかったのか!とか。
ワタナベ=松山ケンイチというのは、いろいろ異論はあるのでしょうが、「そんなにカッコよくないけど、このくらいならいいかな、って納得しちゃう顔」というのと「押しつけがましくない存在感」という意味では、おそらく、「唯一に近い選択肢」だったのではないでしょうか。
もともと原作でも、「顔のイメージが浮かびにくい人物」だったワタナベを、うまく「自分なりに演じている」と思います。

しかし、「こんな映画の登場人物のセリフみたいな言葉、しゃべるヤツいねーよ!」
と言われる村上作品の会話、実際に映画で観ると、「ごめん、映画でも(いや、映画のほうが)こりゃ聞いているほうが恥ずかしい」と感じたのは意外だったなあ。
むしろああいう言いまわしこそ「小説だから許される」ものだったみたいです。

そして、かなり疑問の声が上がっていた、菊地凛子さんの直子。
うーん、これは熱演、だと思います。
これ競歩?と言いたくなるほどの歩く速さも、菊地さんの名誉のために書いておくと、「トラン・アン・ユン監督の方針」だったそうです(先週の『AVANTI』で菊地さんが仰っていました)。
でも、やっぱり「何か違う」のだよなあこれ。
こういうことを書くと怒られるかもしれませんが、やっぱり僕には、菊地さんの「年齢」が気になったんですよ。
普段のシーンでは、そんなに実年齢が気にならないくらい抑えて演技をされているのですけど……
直子が泣くシーンが、この映画のなかで、何度かあるのですが、菊地さんの泣きっぷりは、「うわぁぁぁぁーーー」っていう「おばちゃん泣き」なんです。
僕はこの映画で直子が泣くたびに、「うざっ!」と感じてしまう自分が悲しくなりました。
直子は、もっと静かに、そして美しく泣く女の子で、涙を流しているときは、そっと抱きしめてあげたくなるような存在のはず(僕基準)なのに。
菊地さんの演技って、なんというか、「ハリウッドの狂った人の演技」なんじゃないかなあ。
演技としては上手いのかもしれないし、直子の「病気」のことを考えると、そういう感情の暴発のしかたのほうが「リアル」なのかもしれないけれど、僕は受け入れがたかった。
菊地さんは、「直子を演じる」ことよりも、「狂った女性を上手に演じる」ことを選んでしまったように、僕には見えました。
その結果、「もういいよ直子、ワタナベも『人間としての責任』なんて言ってないで、緑に行けよさっさと」と思いながら観てしまうことになったし。
僕は原作では、けっこう最後の最後まで「直子派」だったんだけど。

緑役の水原希子さん、僕はけっこう好きでした。
あのセリフのたどたどしさは、「演技」なのだと思いたいのだけど、それも含めて、この映画『ノルウェイの森』のなかでは、いちばん存在感があったのではないかと。
見た目が綺麗って、トクだよね……
いや、僕自身の緑のイメージは、「もっと過剰にヘンな女の子」だったので、この映画の緑は、「ちょっと気まぐれなだけの『普通の女の子』」にも感じたのです。
でも、意外と受け入れやすかったのは、あの時代の「緑的にヘンな女の子」というのは、2010年の感覚からすると「普通の範疇」に入ってしまうのからなのかもしれません。
基本的に「彼と別れました」って言う女の子は、ちょっとズルいとは思いますが。

そして、レイコさん……
ああ、僕はこの映画版『ノルウェイの森』、これはこれでアリだと書きましたが、レイコさんに関しては、「かわいそう」というか「原作のレイコさんに失礼だろ」としか言いようがありません。
「レイコさんを救う会」を作りたいくらいですよもう。
あれじゃあ、単なる色情狂じゃないか……
小説版では、レイコさんがあの施設に入るまでの、けっこう長い物語を読者は聞いています。
レイコさんが、いかに直子のことを大切にしてくれたのかも。
そんなレイコさんが、あのことをきっかけに、施設を出て、「社会に戻る」ことを選択し、「通過儀礼」として、ワタナベのアパートにやってくるのです。
あの「お葬式」の場面を読むたびに、僕は、自分が楽器を演奏できないことが悲しくてしょうがないのです。
そんな流れのあとだからこそ、「ねえ、アレやらない?」というのも、素直に入ってくるのだけれど……
いや、この映画でのあの場面は本当に酷かったというか、痛々しかったというか……

このレイコさんの件が象徴的なのだけれど、トラン・アン・ユン監督は、あまりにすべてを「性欲のみ」で解釈しすぎているように、僕には感じられました。
たしかに、村上春樹という人は、「セックス」を描くことにためらわない人だけれど、僕は、村上春樹は「性的満足のためだけのセックス」を描く人ではないと思います。


僕は、この映画を観られて、けっこう嬉しかったんですよ。
高校生のときにはじめて読んだ本が、こうして、ようやく映像化され、中年のオッサンになった自分が、こうしてその作品を目の当たりにできていることに。
そして、その作品が、多くの人にとって、「忘れられない小説」として共有されていることに。
この作品に関しては、どんな酷い映画が公開されても、僕のなかにはすでに、僕のための『ノルウェイの森』ができあがっているのです。
だから、「ああ、トラン・アン・ユン監督は、こんなふうに解釈したんだな、ふーん、プロの監督は、あの小説を、こんな切り口で映像化するのか」という「プロの監督は、どう料理するのか?」という興味を満足させるだけでも、ある意味十分でした。
あの小説を2時間・このキャストで映画にしろと言われたら、これ以上のものを作るのは、たぶん、すごく難しいと思うしね。


実は、僕はこの映画を観ながら、「村上春樹の小説の魅力」について、ずっと考えていました。というか、考えずにはいられなくなるんですよ、この映画を観ていると。
この映画は「大切なものの喪失」を描いているという、大きなテーマに忠実な作品なんです、たぶん。
でも、僕は突撃隊の出番がほとんど無いことや、レイコさんの「内面」が描かれなかったことが、すごく寂しかったし、彼らのようなキャラクターを丁寧に、かつ魅力的に描いていることこそが、村上春樹の作品の凄さなのでしょう。
もちろん、そこをカットしたからこそ、2時間強の映画にできたのですが、逆に言えば、「村上春樹の小説の本当の魅力、ディテールの面白さは、2時間の映画では語りきれない」ということがよくわかりました。

「原作のイメージと違う」という意見は、たくさん出てくると思います。
しかしながら、僕は「原作のイメージとは違うからこそ、原作ファンにとっては、興味深い作品になっている」という気がするんですよ。
原作を未読の人にとっては、「なんか断片的なイメージ映像みたいなのが2時間続いて、いろんなことが突発的に起こる、よくわからない映画」っぽいし、トラン・アン・ユン監督は「みんな『ノルウェイの森』は、読んだことあるんだろ?」と思っていそうなので、未読の人には、説明不足で「不親切な作品」だと思われそうですけど、僕にとっては、非常に興味深い映画でした。
あと、主題歌にビートルズの『ノルウェイの森』が使われているのは、当たり前のことなのかもしれないけど、すごく良かった。


以下、久々のネタばれ感想です。映画を未見の方は、読まないことをオススメします。
本当にネタばれですよ!


 僕はこの映画化を知って、冒頭のシーンがどうなるのか、すごく興味があったのです。
 あの主人公が、飛行機のなかで『ノルウェイの森』を聴いて、昔のことを思い出し、キャビンアテンダントに慰められるシーン。
 前から、疑問だったんですよね。
 なぜ、村上春樹は、あのシーンを描いたのだろうか?と。
 映画『タイタニック』の冒頭のおばあさんのシーンも「あんなの不要だったのでは?」と思ったのだけど、あれはまあ、タイタニックから昔の『絵』が見つかるという、「永遠の愛演出」にかかわってはいるわけです。
 ところが、『ノルウェイの森』は、ワタナベ・トオルが昔を思い出すシーンからはじまるのだけれど、最後まで、「いま」に戻ってくることがありません。
 普通、「回想」ではじまった物語は、「その人物の現在は…」みたいな形で終わるはずです。
 『ノルウェイの森』って、「過去の世界に行きっぱなし」で、「非常に不安定な形で終わる」作品なんですよね。

 で、今回は、中年ワタナベ・トオルのシーンは映像化されませんでした。
 ああ、でも考えてみれば、あの冒頭のシーンで、「とりあえず、この主人公は死なないってことだよな」と、読者に安心させる効果はあったのかもしれませんね。
 放っておいたら、みんな死んじゃいそうな小説だから。

 それにしても、この映画『ノルウェイの森』、僕が好きな場面がことごとくカットされていました。
 「突撃隊」は、ファンが多いというか、村上作品のなかでも、すごく記憶に残るキャラクターであり、「突撃隊はどこに行ったのか?」というのは、村上作品のひとつの大きなテーマだと思うのですが、ほんと、「とりあえず突撃隊も出しましたよ」という程度の扱いだったのは寂しかった。
 あと、ワタナベと直子に、もうちょっと普通の会話とかもさせようよ、あのルックスとあの行動では、「なぜだワタナベ……」としか思えない。
 緑との火事を眺めながらのキスもなかったし(不謹慎だから、なのでしょうか)、緑のお父さんとのキュウリを食べながらの「エウリピデス」もなし。
 直子が死んだあと、ワタナベが放浪する場面で、「母親が死んだから、悲しくて旅をしている」と嘘をついたら、それを信じて寿司と5000円札をワタナベに持ってきてくれた地元の男。
(僕はこの場面、けっこう好きなんです。ワタナベが「お前なんかには想像がつかないほど、美しくて大事なものが失われてしまったんだ」と内心この若い男に毒づきながら、ちゃっかりと寿司を食べ、お金ももらってしまうところが。昔はこの場面嫌いだったんですが、今は、こういうのが「リアリズム」なんだろうなあ、という気がします)
 最後に、やはりあの最後のワタナベのアパートでレイコさんがギターを弾く「直子のお葬式」。
 
 うーん、こうして思い出してみると、僕が『ノルウェイの森』で覚えているのって、「脇役」に関する場面がものすごく多いみたいです。
 これらの場面がカットされていたのは、寂しくもあり、また、「映像で固定されてしまわなくてよかった」と安心しているところもあり。
 正直、これから『ノルウェイの森』を読む人たちが、直子=菊地凛子で読んでしまうとするならば、それはちょっと残念だし。

 それと、こうして映画になると「背景」を描かなければならなくなるので、これが「全共闘世代の物語」だということをあらためて考えました。

 そうそう、最後にもうひとつ。
 直子が死んだときの、足ブラブラ映像は酷いよね。キズキの自殺シーンが長々と描かれるのとか、ワタナベと直子のセックス・シーンが、露出もほとんどないのに長時間ふたりの顔ばかり見せていたのもどうかと思うし、「寝る」だの「濡れる」だのを連呼する会話も悪趣味で、観ていてうんざりしました。日本語の脚本で、誰かその違和感を監督に指摘しなかったのだろうか。

 ……うーん、原作未読者には、説明不足でよくわからず、原作ファンには、いろいろともどかしい。そんな映画ではありますよね。
 困ったな、☆4つつけたのに、悪口ばっかり書いてしまった……この映画、けっして「嫌い」じゃないのに。

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