キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)
- 作者: 佐々木俊尚
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2011/02/09
- メディア: 新書
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内容紹介
情報の常識はすべて変わった!
テレビ、新聞、出版、広告――。マスコミが亡び、情報の常識は決定的に変わった。ツイッター、フェイスブック、フォースクエアなど、人と人の「つながり」を介して情報をやりとりする時代が来たのだ。そこには人を軸にした、新しい情報圏が生まれている。いまやだれもが自ら情報を選んで、意味づけし、みんなと共有する「一億総キュレーション」の時代なのである。シェア、ソーシャル、チェックインなどの新現象を読み解きながら、大変化の本質をえぐる、渾身の情報社会論。キュレーション【curation】
無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と共有すること。
佐々木俊尚さんの新刊。
佐々木さんの本は、いつも「みんなが見ているインターネットの一歩先」を見据えているようで、すごく刺激を受けます。
その一方で、ネット好きでありながら、ネット社会に対してなんとなく将来への不安を拭いきれない「守旧派」の僕にとっては、「そんなに良いことばかりなのだろうか?」と考え込んでしまう面もあるんですよね。
この新書のなかで、佐々木さんは「キュレーション」というのがこれからの人と人を繋ぐキーワードとなっていき、コンテンツそのものよりも、そのコンテンツに価値を付加する人、すなわち「キュレーター」が、これからの世界をつくっていくキーマンになるのだ、というようなことを述べておられます。
そして、ネットという双方向性の世界では、いままでのマスメディアと受け手のような一方的な関係ではなく、誰もがあるときには「キュレーター」として情報を発信し、そしてあるときには、キュレーターからの情報を受け取って消費する側にまわって、というさまざまな役割を担うようになっていく、ということになるのです。
僕もあるときには、他のブロガーが紹介している本をAmazonで買いますし、僕が紹介した本を買ってくださる人もいます。
社会との関係は接続と承認が中心になり、その接続・承認を補強するための手段として、いまやモノは買われているということなのです。この消費社会の地殻変動を理解しなければ、これからの広告、これからの情報流通はもはや語れません。
それは、消費のむこうがわに人の存在を見るということ。他者の存在を確認するということ。
たとえば大好きなレストランで食事をするとき、私たちはただお金とサービスを交換しているだけなのではない。そこでは「素晴らしい食事を作ってくれる人」「食事をおいしそうに食べてくれる人」という相互のリスペクトがあって、お金だけでなくそうしたリスペクトも交換しているのです。
音楽配信のiTunesには、アフィリエイト広告機能があります。つまり自分のブログか何かで楽曲を紹介し、その楽曲をだれかが購入してくれると数パーセントの広告代金がブログの書き手にアップルから支払われる。これは
たしかに広告で、お金のやりとりが行われているわけですが、しかし1曲150円の曲の広告料なんてわずか数円ぐらいでしかない。だからこのアフィリエイト広告を儲けのためにやっているブロガーなど、ほんの一握りでしかないでしょう。
儲けのためではないとしたら、いったい何のためにやっているのか。それは明らかです。自分がブログで紹介したとき、それをだれかが購入してくれたという事実をそのアフィリエイト広告で確認できるからにほかならない。自分がブログで書いたことを、だれかが喜んでくれている。その事実をそこはかとなく認知したいがために、iTunesのアフィリエイト広告を導入しているのです。
そこでは消費は、そうした人々のつながりの象徴にすぎません。
このブログでアフィリエイトをやっている僕には、この文章の意味がよくわかります。
もちろん、お金が儲かればそれにこしたことはないのだろうけれど、どんなに頑張っても、ほとんどのサイトでは、一か月に1万円アフィリエイトで稼ぐのは無理でしょう。
でも、「自分が書いた本の紹介が、誰かがその本を手に取るきっかけになってくれた」という明確な証拠をアフィリエイトのレポートで見ると、書いている側として、やっぱりすごく嬉しいんですよね。
単なるカネとモノの交換だけでなく、そこになんらかの共感や共鳴が存在する関係に。
そういう持続的な関係が、新たに生まれてくるということなのです。
この持続的な関係性のことを、本書ではこれから「エンゲージメント」という広告用語で呼んでいくことにします。エンゲージメントは日本語で言えば「婚約」「契約」といったような意味。企業が消費者を誇大広告で騙してモノを買わせたり、集中豪雨的なキャンペーン広告に消費者を引きずり込んだりするようなやり方ではなく、企業と消費者のあいだにきちんとした信頼関係を形成し、その信頼関係の中でモノを買ってもらう。広告の業界では、そういう関係性がマスメディア衰退後の世界では非常に重要だとここ数年強く認識されるようになっていて、「エンゲージメント」というような言葉で呼ばれるようになっているのです。
ただ、こういう「人と人、あるいは人と企業との信頼関係」がうまく機能する場合だけであれば良いのでしょうが、ネットには(というか「人間には」と言うべきなのかもしれませんが)、あまりにも情報の量が多くて、無意味あるいは有害なノイズもけっして少なくありません。
「マスゴミは信頼できない!」と叫んでいる人が、その批判の根拠にしているのが、別の新聞の記事だったりすると「自分が直接調べたわけでもないことなのに、どうしてそんなに断言できるのだろう?」と僕は疑問だったのです。あるときには、「2ちゃんねるの書きこみ」を根拠に、新聞記事を全否定する人さえいましたし。
そもそも私たちは、情報のノイズの海に真っ向から向き合うことはできません。
1995年にインターネットが社会に普及しはじめたころ、「これからは情報の真贋をみきわめるのが、重要なメディアリテラシーになる」といったことがさかんに言われました。マスメディアが情報を絞っていた時代にくらべれば、情報の量は数百倍か数千倍、ひょっとしたらもっと多くなっているかもしれません。その膨大な情報のノイズの海の中には、正しい情報も間違った情報も混在している。これまでは新聞やテレビが「これが正しい情報ですよ」とある程度はフィルタリングしていたので、まあそれをおおむね信じていれば良かった。もちろん中には誤報とか捏造とかもあるわけですが、しかし情報の正確さの確率からいえば、「正確率99パーセント」ぐらいの世界であって、間違っている情報はほとんどないと信じても大丈夫だったわけです。
ところがネットにはそういうフィルタリングシステムがないので、自分で情報の真贋をみきわめなければならなくなった。だから「ネット時代には情報の真贋を自分でチェックできるリテラシーを」と言われるようになったわけです。
正直に告白すれば私も過去にそういうことを雑誌の原稿や書籍などで書いたこともありました。しかしネットの普及から15年が経ってふと気づいてみると、とうていそんな「真贋をみきわめる」能力なんて身についていない。
それどころか逆に、そもそもそんなことは不可能だ、ということに気づいたというのが現状です。
考えてもみてください。
すでにある一次情報をもとにして何かの論考をしているブログだったら、「その論理展開は変だ」「ロジックが間違っている」という指摘はできます。たとえば「日本で自殺者が増えているのは、大企業が社員を使い捨てしているからだ」とかいうエントリーがあれば、自殺増加の原因についていろんな議論ができるでしょう。でもそういう議論をするためには、書かれている一次情報が事実だという共通の認識が前提として必要になってくる。つまり「自殺者が増えている」という所与の事実を前提としてみんな議論をしているわけです。
逆に、だれにも検証できないような一次情報が書かれている場合、それってどう判断すればよいのか。たとえば、小沢一郎を起訴に持ち込むために検察のトップと民主党の某幹部が密談していた」とか書かれていた場合、それを検証することなど普通の人間にとってはほぼ100パーセント不可能です。新聞社の敏腕記者だってウラ取りするのはかなり容易ではない。
だから「真贋をみきわめる」という能力は、そもそもだれにも育まれようがないというのがごくあたりまえの結論だったわけです。
でも一方で、もしその「検察トップと民主党の某幹部の密談」というのが政治ジャーナリストとして著名な上杉隆さんや田原総一朗さんの署名記事に書かれていたらどうでしょう。「これは本当かもしれない」と多くの人は信頼に足る記事だ、と捉えるのではないでしょうか。
なぜかといえば簡単なことで、過去に上杉さんや田原さんが書いてきた記事が信頼に足ることが多かったからです。
つまり「事実の真贋をみきわめること」は難しいけれども、それにくらべれば「人の信頼をみきわめること」の方ははるかに容易であるということなのです。
長々と引用してしまって申し訳ありません。
いまのネット社会のなかで、もっとも「リテラシー」が高そうな人のうちのひとりである佐々木さんのこの言葉は、非常に重いものです。
「メディアリテラシー」という言葉はもっともらしく頻繁に使われているけれど、こうして考えれば考えるほど、たしかに「『真贋をみきわめる』という能力は、そもそもだれにも育まれようがない」と思えてきます。
一次情報を得られる立場にない人間にとっては、結局のところ、「何を信じるか」よりも、「誰を信じるか」を決めるほうが、はるかに容易なはずです。
いや、「人の信頼をみきわめること」だって、けっして簡単ではないし、世間の詐欺行為の多くは、「詐欺師が相手に『この人の言うことなら信じられる』と思わせること」によって成り立っているのも事実なんですが。
そんなふうにしていくと、「じゃあ、自分の知り合いじゃなくても、信頼できる人は?」というところで挙がってくるのは、有名人や学会での地位が高い人などになってしまい、「やっぱりマスコミや立派な肩書きを持っている人じゃないと……」と、かえって、「マスコミへの信頼の回帰」が起こってくるような気もします。
facebookがこだわり続けている「実名化」、そして、目指している「個人の行動の可視化」というのは、「何の肩書きもない『一般人』がキュレーターとして『信頼』されるためには、みんなに見えるところで、誠実な行動を積み重ねていくしかない」というマーク・ザッカーバーグをはじめとする運営者たちの信念を反映しているのかもしれません。
僕たちは、誰でも「キュレーター」になることができる。
でも、そのためには、ある程度自分を「可視化」することを受け入れざるをえない。
それは、営利目的の企業や「キュレーションを職業とする人」以外には、かなり高いハードルのように思われます。
日本で「実名主義」のfacebookが海外ほど爆発的に普及しないのも、「そこまでして、キュレーターとしての自分を前面に出すメリットも、覚悟もない」からなのかもしれません。
僕は、自分に合ったキュレーターを選ぶために取捨選択するよりも、マスコミに提示された価値観をそのまま受け入れるほうが、はるかにラクだと思うし、実際にそれを望んでいる人のほうが、多数派なのではないかと考えてしまいます。
「キュレーション」は、ひとつの潮流として、広がってくるでしょう。
それでも、『KAGEROU』や『逮捕されるまで』があれだけ売れるのを目の当たりにすると、マスメディアという大きな海流は、まだしばらくは安泰なのだろうな、と思わずにはいられません。
個人的には、人間の「発信したいという意欲」が過大評価されている(そして、「めんどくさいから、大きな力に流されたい」という惰性が過小評価されている)ような気もしますが、これからのネット、そして、社会について知りたい人、考えてみたい人に、ぜひ一度読んでいただきたい一冊です。
参考リンク:『フェイスブック 若き天才の野望』感想(琥珀色の戯言)
フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)
- 作者: デビッド・カークパトリック,小林弘人解説,滑川海彦,高橋信夫
- 出版社/メーカー: 日経BP社
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- メディア: ペーパーバック
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