琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「『きかんしゃトーマス』って全然面白くない」

週末、家族で富士急ハイランドに行っていたのです。
息子は最近『きかんしゃトーマス』がお気に入りで、今回も、富士急ハイランド内にある『トーマスランド』で遊び、ホテルの『トーマスルーム』
に泊まるという、まさに『トーマス漬け』の旅行でした。


かなり御満悦の様子で、富士急ハイランドから新宿ゆきの『トーマスバス』に乗り込み、新宿のバスターミナルで下車。


それは、バスから荷物を下ろされるのを待っている間のことでした。
通りすがりの20歳くらいの男性が、『トーマスバス』を一瞥し、一緒に歩いていた、連れにひとこと。
「『きかんしゃトーマス』って、昔観てたことあったけど、全然面白くないんだよね」
その言葉を耳にした瞬間、僕はなんだか冷水をぶっかけられたような気分になりました。
彼はもちろん、いままさに『トーマスバス』から降りてきた僕たちに向けて言ったわけじゃなかったはずだけれど、その声はちょっと大きすぎたのです。
僕は思わず、息子のほうを向いたけど、まだ2歳半の息子の耳には、その言葉が届いていなかったようでホッとしました。


……いや、彼に悪気は無かったのだろうし、僕も正直『トーマス』のあまりに説教くさいところは苦手です。
原作者のウィルバート・オードリーさんが牧師ということで、「友情」とか「正義」とか「正直さ」に対して、あまりに真摯に向き合っていて、息苦しく感じることもあります。
息子の教育にとってプラスになるかどうかはさておき、僕も「きかんしゃ」好きだったから、息子が愉しんでいるのを微笑ましく感じてはいるのだけれど。


僕は帰り道で、眠っている息子の顔を見ながら、「面白くない」と公言することの迷惑さ、について考えずにはいられませんでした。
彼はあくまでも「自分はつまらなかった」と言ったのでしょう。
何も、『トーマスバス』に乗ってきた子どもたちの前で、大声で言う必要はなかったと思うけれど、それは別に違法でもないし、そもそも彼は「そこにいるトーマス好きの子どもたち」の存在など、全く意識していなかったはず。
ただ、連れに「トーマスなんて子どもだましだと思っていた、子どもの頃の自分」を、アピールしたかっただけのことです。


でも、その場で、彼のことばを聞いた子どもたちは、多かれ少なかれ、傷つかずにはいられなかったのではないかと思います。
「大好きな」トーマスバスから降りた瞬間に「君たちが大好きな『トーマス』なんてつまらない」という言葉を投げつけられたのだから。
そういうのに慣れないと、生き抜いていくのは難しい、たしかにそうでしょう。
それでも、わざわざ自分が大好きなものの悪口を聞かされる「筋合い」みたいなものはないような気がするのです。


僕が考えていたのは、「ネットで自分が嫌いなもの、あるいは好きじゃないものの批判をしたり、悪口を言ったりする」というのも、たぶん、これと似たようなものなのだろうな、ということです。
言っている本人は、「自分の考えをふとつぶやいてみた」くらいの意識しかなくても、それを読んで、傷ついたり、がっかりしたりする人が存在する可能性はあります。
自分が好きなものを貶されるのは、やっぱり悲しい。
その一方で、「悪口や批判は正当な権利だ」と言う人は多い。
そして、その言葉がこんなふうに誰かを傷つけているということを、全く意識していないように見える人も多い。
あなたがもしその場にいて、トーマスバスから楽しそうに降りてきた子どもたちのことを意識していれば、隣の知人との会話のなかでも、大声で「面白くないよね」と言えるでしょうか?
少なくとも、あの若者だって、子どもたちに面と向かっては、言わないだろうと思います。
「そんなつもりはないのに」誰かを傷つけてしまうというのは、すごく悲しいことです。
でも、それは、いまこの瞬間にも起こっていることだし、僕自身も、ネット上で同じことをやってしまっているのです。


批判は「権利」ではあります。
悪口だって、友だち相手の雑談の中であれば、吊るしあげられるような犯罪ではありません。
でも、それが「誰かを傷つけてしまう可能性」については、意識しておく必要はあります。
ネットの場合、まさに「誰に読まれるかわからない」のだからなおさらのことです。
誰がどんな状況で読んでいるのかわからないのだから、今日の「トーマス嫌い」の若者よりも、はるかに深く誰かを傷つけているかもしれないんですよね。
相手の顔が直接は見えないから、「意識していない」だけのことで。


本当は、「自分の好きなものについて褒める」ことに専念できればいいのだろうな、とは思うのだけど……

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