琥珀色の戯言

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荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 ☆☆☆☆


荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 (集英社新書)

荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 (集英社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
荒木飛呂彦がこよなく愛するホラー作品の数々は、『ジョジョの奇妙な冒険』をはじめ、自身が描いた漫画作品へも大きな影響を与えている。本書では、自身の創作との関係も交えながら、時には作家、そして時には絵描きの視点から作品を分析し、独自のホラー映画論を展開する。巻頭には「荒木飛呂彦が選ぶホラー映画Best20」も収録。ホラー映画には一家言ある著者の、一九七〇年代以降のモダンホラー映画を題材とした偏愛的映画論。


荒木先生、こんなに「ホラー映画」好きだったのか……

まずは、荒木先生の「ホラー映画」の定義から。

 それでは、いよいよ幕を……という前に、自分流に解釈した「ホラー映画」なるものについて、改めて説明しておきます。最初に述べたように、「観客を怖がらせるために作られた」映画。それが何よりもまず、僕にとってのホラー映画です。
 当たり前と思われるかもしれませんが、人間の在り方を問うための良心作だったり、深い感動へ誘うための感涙作だったりというのは、結果としてそれがどんなに怖い映画であっても逆にホラー映画とは言えません。ひたすら「人を怖がらせるために作られていることがホラー映画の最低条件で、さらにはエンターテイメントでもあり、恐怖を通して人間の本質にまで踏み込んで描かれているような作品であれば、紛れもなく傑作と言えるでしょう。つまり「社会的テーマや人間ドラマを描くためにホラー映画のテクニックを利用している」と感じさせる作品よりも、まず「怖がらせるための映画」であって、その中に怖がらせる要素として「社会的なテーマや人間ドラマを盛り込んでいる」作品。それこそがホラー映画だというわけです。

「とにかく観客を怖がらせるために作られた映画」、テーマなどは、あくまでも「観客を怖がらせるための道具」でしかない。
 それが、荒木先生にとっての「ホラー映画」なのです。

 荒木先生が、ホラー映画の魅力に取り憑かれたのは、1973年に映画館で観た『エクソシスト』だったそうで、この新書では、主に『エクソシスト』以降、1970年代以降の映画が紹介されています。
 あくまでも、荒木先生の「映画体験」「私的な愉しみ」の延長として書かれた本であるため、「古典」は省かれているのですが、年代が比較的新しいものが多いため、レンタルDVDなどで観ることが可能な作品がほとんどです。
 紹介されている映画のなかには、マニアックなものも含まれてはいますが、比較的有名な作品が多く、親近感を持てました。
 ホラー映画はほとんど観ない僕も何作か「これは観てみたい!」と思いましたし。
 これは、映画評論が本職ではない荒木先生の強みなのでしょうね。
 映画評論家であれば、こういう新書にまとめるときには「歴史に残る古い作品」にも触れざるをえないでしょうから。

ブレインデッド』(1992年・ニュージーランド)は、同じパロディ的な側面を持ったゾンビ映画でありながら、ロメロの作品を直接パロディにしているわけではありません。スプラッタ・コメディとしてゾンビ映画の要素を突き詰めていって、「ゾンビの肉体をどこまでバラバラにすれば生き返らないのか?」ということを無限に追求したあげくに、人体破壊の究極にまで至ってしまった感じでしょうか。物語は主人公の青年と暮らす母親がゾンビになってしまうところから始まって、その家の中で起こる惨劇を描いていますが、最後は主人公が芝刈り機を使ってゾンビたちをミンチにしていくとい眼を覆うような有様です。
 だから、死体をモノ扱いして「そこまでやるか!」という描写が続いていくのに、モノ扱いされているからこそ、あまり嫌悪感がない。むしろアッケラカンと見ていられるし、ハチャメチャすぎて現実感がなくなり、ついには楽しくさえなってしまうというのが『ブレインデッド』の醍醐味でしょう。

『ゾンビ』の三年後に公開された『死霊のはらわた』(1981年・アメリカ)。

(中略)

 冒頭からまもなく、主人公たちが山の別荘に到着するシーンから、すでに異様な映画であることが感じ取れます。手持ちの映画カメラを使って撮影されたこの作品は、16ミリフィルムの粗い画面からして、強い臨場感を見る側に伝えてきます。公開時話題になった独特の手法は、それまで学生監督にすぎなかった監督が低予算で映画を創り上げるために編み出したもので、16ミリカメラを手持ちにして森の中を走り回ったと伝えられています。それだけにスピード感、さらに監視カメラの映像を覗き込んでいるようなリアリティがあって、その映像がまた恐怖を煽ってくる。現在ならビデオカメラで手軽に撮れてしまうのかもしれませんが、カメラが悪霊の目線となって森の中を走り抜けていく映像は、当時としてはかなり画期的なものでした。

『28日後…』(2002年・イギリス)の紹介より。

 未知のウイルスによって人間が生きたままゾンビ化し、それに噛まれた人間がさらに感染して社会が崩壊した、最初のゾンビ出現から28日後の世界。遺伝子組換え食品だとか、新型インフルエンザだとか、そういう恐怖がリアルなものになった時代だからこそ、ゾンビ映画がこういう形で見直され、作られたのでしょう。実に現代的で、まさしく21世紀のゾンビ映画です。


荒木先生の「ホラー映画の話」を読みながら、僕は、亡くなられた中島らもさんも、ホラー映画の大ファンだったことを思い出さずにはいられませんでした。
らもさんのホラー映画好きに関しては、「なんとなく、らもさんらしいな」というくらいの印象しかなかったのですが、ここで紹介されている3つの映画の監督の名前を見て、僕はけっこう驚きました。

ブレインデッド』は、『ロード・オブ・ザ・リング』のピーター・ジャクソン監督。
死霊のはらわた』は、『スパイダーマン』のサム・ライミ監督。
『28日後…』は、『スラムドッグ$ミリオネア』のダニー・ボイル監督。

「ホラー映画」というのは、低予算でもアイディアや見せ方次第で新しい表現が可能で、眼の肥えた「ホラー映画マニア」に鍛えられるという、まさに「映画を作りたい人間の登竜門」的な位置づけのようなのです。
だからこそ、「カネもコネもない、新しいクリエイター」たちが、ホラー映画で一旗揚げようと押し寄せてくる。
単に「怖いのが好き」なだけではなく、そんな「創りたい人たちのエネルギー」が、荒木先生や、らもさんを「ホラー映画」に引き寄せていた魅力なのではないかと思います。
いや、ピーター・ジャクソンさんとか、サム・ライミさんは、もともと「ホラーは嫌いじゃない、というか好き」なのだという気がしますけど。

この新書では、『ジョーズ』とか『ミザリー』とか『シックス・センス』のような、「定番になってしまった映画」の魅力も、「クリエイター・荒木飛呂彦」の立場から熱く語られています。
本当に、新しく観てみたい映画、そして、観直してみたい映画が増えて困るなあ。

最後に「漫画家・荒木飛呂彦」さんが「絵描きの性」について語られている部分をご紹介して終わりにします。

 絵を描くことを仕事にしている僕も、端から見ると眉をひそめるようなシーンを描いている時、それが実は楽しかったりすることがあります。残酷なものを描いているからではなくて、人間の肉体をありえないように変形させて描くのは、そう描くことが逆に生命を描くことにつながるという発想なのです、美術で言えばイタリア・ルネサンスマニエリスムもそうですけれども、肉体を曲げたり引き伸ばしたりする奇抜な人体表現がもてはやされるのは、生と死の限界を突き抜けていこうとするような情熱をそこに感じるからではないでしょうか。
 絵描きとして、今まで誰も描いたことのないものを描きたいという衝動。それは美女が恐怖で顔を歪めるところを描きながら「美しい顔がこんなになるのか」と観察する、容赦のない表現の追求でもあるわけです。そしてその先にあるものを見たいというのが絵描きの性であり人間の根源的な欲求でもあるので、映画監督や画家は、過去に描かれたものの限界を越えて、誰も描いていない、踏み込んだことのない領域へ到達したいと思う心理を作品で表現している。そして観客や鑑賞者は、彼らの作品を通してその深淵を垣間見るのです。

これを読んでいて、芥川龍之介の『地獄変』を思い出さずにはいられませんでした。
表現者」というのは、なんて罪深い存在なのだろうか。
その一方で、「最低の人間によってつくられた、最高の作品」が、多くの人々を魅了し続けるのです。
(念のために書いておきますが、荒木先生やこのエントリに出てくる映画監督たちが「最低の人間」だと言っているわけではありませんよ!)

僕みたいに、「ホラー映画には興味がないけれど、荒木飛呂彦には興味がある」人には、新しい世界への扉をひらいてくれる新書だと思います。

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