琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「医者になるための条件」と「良い医者になるための資質」

昨日御紹介した菅谷先生の『チェルノブイリ診療記』を読んで、以前『いやしのつえ』というサイトに書いた、この文章のことを思い出しました。



参考リンク:ホルマリンと解剖実習

 
 この「ホルマリンアレルギーという事実は、彼女にとって辛いものだったんだろうな」とか、「でも、彼女のために『有害物質・ホルマリン』を病院から排除することはできないだろうなあ」とか。
 実際に、海外の大学では献体による解剖実習は行われていないところもたくさんありますし、「医者としての通過儀礼」という意味以上のものがあるのか?というのは難しいところです。
 「海外の医者は、解剖実習をしていないから技術が劣る」なんてことはないでしょうし、実際に、日本でも実習のための献体に協力していただくのは、なかなか困難な状況にもなってきていますしね。


 ただ、現実問題として、「どこまでが、『医者になるため』に必要なことなのか?」という匙加減というのは非常に難しいところでもあるのです。そう言いはじめたら、「直結するもの」というのは限られてくるわけですし。


 僕は今の仕事では日常的にホルマリンに接していますが、正直、そんなに簡単に「慣れる」ものではないですし、ずっとホルマリンが充満した部屋にいると頭がクラクラして、マスクをしていても喉が痛くなりますから、あれが「有害」であることは間違いありません。ただ、僕にとっては「ガマンできる範囲」であり、「ガマンしなくてはならない立場」である、というだけのことで、あの臭いを自室に満たそうなんて、絶対に思えませんけど。

 
 しかしながら、こういう「アレルギー」というのは、非常に難しい面もあるのです。
 例えば、「アレルギーを引き起こす可能性のある食べ物は、給食のメニューに入れてはならない」ということになれば、「使える食品」というのは、ごく限られてきます(ひょっとしたら、「誰もアレルギーを起こさない食べ物」なんて、ほとんどないかもしれません)。結果的には、「そういう可能性がある」ことは承知の上で、なるべく安全性の高い材料を使ったり、アレルギーを持っている人は、個別に対応したりしているのです。
 「エビアレルギーの子どもがいるのに、学校の給食にエビフライが出た」というので訴えても、多分裁判で勝つことは難しいでしょう。
 「医者」という仕事にも、やっぱり「適・不適」があるのは、厳然たる事実です。


 僕は率直なところ、優秀な学生ではありませんし、自分でも「この仕事には向いてないよなあ」なんて思うことばかりなんですけど、それでも医者を十年近く続けています。
 それには、「運」みたいなものもあって、「もしあのときの上司が、もうちょっと厳しい人だったら…」とか「あの病棟で、あと1ヵ月研修していたら…」なんて想像すると、「自分はツイていたのかもしれない」という気もしてきます。
 大学の医学部というのは、「医者を育てる」のと同時に一種の「ふるい」のような働きもあるのです。悪く言えば、「医者に向かない人間を振り落とすような機能」を持っています。
 僕たちはそこで、大学とは思えないようなギッシリ詰まったカリキュラムに出席し、テストでそれなりの成績を残し、実習では気が合わない人も含めて「うまくやる」ことを要求されるのです。
 「せっかく医学部に入ったのに、そんなふうにふるいにかけるのはおかしい」と考えられるかもしれません。
 ただ、医学部の学生というのは、大学を卒業したら、医者として患者さんの前に立たなければならないのです(もちろん、研究職という道もありますが)。
 とすると、やっぱり、「医者の仕事についていけない人間は、医者になる前にふるい落とさざるをえない」面もあるんです。
 「医者なんて、そういう腐ったエリート意識のかたまり」とか思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、そんな「適応できない人間」に自分が診察されることを想像するのは、怖くないですか?
 それにね、僕などは「勝ち抜いた」というよりは、「なんとか生き延びてきた…」という感じなのですよ。もう揺れる船のマストにしがみつくのに必死で。
 たぶん、多くの医者もそうなのだと思います。


 しかし、この「ホルマリンアレルギー」の例に関して言えば、そういう「人間的不適応」の場合よりは、もう少し対応のしようもあるんじゃないのかなあ、という気もするんですよね。もちろん、病院として、大学として「ひとりの人間のためにホルマリンを使わないようにする」というのは、コスト面で難しいのでしょうし、代わりになる薬剤がないという問題もあるんでしょうけど、医者になってしまえば、「ホルマリン」というのは、「避けようと思えば避けられる可能性が高い」でしょうし。
「自分の患者さんが病理解剖をされる場合に、その場に一緒にいられなくなる」とか、「病理もしくは解剖の研究室で、やっていくのは困難」というくらいが、とりたてて思いつくデメリットなのですが、これは「医者になれない理由」にしては、「血を見る必ずと失神する」というほど深刻な問題ではないような気もするんですよね。
 せっかく医学部に入ったのに、そんな化学薬品アレルギーのせいで…というのは、やっぱり悔やまれるだろうし、「運が悪かった」では、本人はあきらめがつかないだろうな、と。


 実際に、「手袋アレルギー」とか「消毒薬アレルギー」に関しては、大きな病院では代替品が用意されている場合が多いので、この場合は「ホルマリンアレルギーの頻度が少ない」というのが、対策が立てられていない原因なのかもしれません。


 とはいえ、そういう「圧倒的にコストに見合わないこと」にまで、大学側が対応する必要があるのか?というのは難しいですよね。その気になれば、「そういうアレルギーを持つ学生専用の肉眼解剖用施設」を全国に一箇所作るとか、「肉眼解剖実習の代わりになる標本(実際に海外では使われている)」を使用しての単位認定をみとめる、ということも可能でしょうし、場合によっては「ホルマリンを扱わない範囲での医師免許」だって不可能ではないかもしれません。ただ、「そこまでしてあげるほど、大学側にも余裕がないし、そこまでして医者をつくる必要性も感じていない」というのが実情なのでは。
 本人にとっては大変なことだけど、海外で医師免許をとるっていう手もなくはないのですが…


 僕は、ホルマリンについては、体にいいものではないし、長い目でみれば改善の余地がある薬品だとは思っています。もちろん、すぐに切り替えることなんて不可能だし、他の薬品に換えたら換えたで、またその薬品に対するアレルギーを持つ人もいるに違いありませんけど。

 ところで、僕が本来書こうと思ったのは、「医者に必要な資質」についてなんですよね。


 確かに、医者という仕事をやっていくのに必要なのは、とびぬけた頭脳なんて必要なくて(そもそも、「医者」という職業に従事している人間は、けっして少なくはないのですから、オリンピック選手とか職業的芸術家とは希少性が違います。特別な人間しかなれなかったら医者不足で困ってしまうわけで)、

「頭が良いと言うよりは、根性があること、諦めないこと、そして丈夫な体があること、これがすべてだと思うのです。

 まさに、この言葉に尽きると僕も感じています。


 先日、僕は医学教育に関する著書で有名な先生の講演を聴く機会があったのですが、その中で、先生はこのように言われていました。
 ハーバード大学で医学教育に従事しているスタッフに「良い医者になるには、どんな資質が必要だと思いますか?」と尋ねたら「うーん、僕にも正直、『これ!』という絶対的な資質というのは、よくわからないんだよ。でも、ひとつだけ言えることがある。良い医者になる連中は、みんな“Nice People”なんだ。これは、まちがいないよ」という答えが返ってきたそうです。


 “Excellent”でも、”Intelligent”でもない、ありふれた褒め言葉。
 日本語で言えば「いいやつ」というところでしょうか。


 でもね、それが確かに、いちばん大事なことなのかもしれない。
 どんな逆風の吹く坂道でも、みんなを励ましながらゆっくりゆっくり登っていける、
そんな“Nice People”であることが。



 これを書いてから、もう5年以上経っていますが、自分が年を重ねていくほど、この「良い医者は、”Nice People”である」という言葉を思い返すことが多くなりました。
 自戒をこめて、もう一度ここに書き残しておきます。

アクセスカウンター