琥珀色の戯言

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今日は「炎のストッパー」津田恒実投手の話をさせてくれないか

昨日、7月20日は「炎のストッパー津田恒実投手の18回目の命日でした。
いまの若い野球ファンは、津田さんのことを知らないかもしれないから、そして、若くない野球ファンも、津田さんの記憶が少し薄れてしまっているかもしれないから、今日は津田さんの話をさせてください。


スポニチの過去の記事には、こうありました。

 山口・南陽工高から社会人の協和発酵を経て、ラブコールを送る巨人を蹴って、81年にドラフト1位で広島入り。通算成績は実働10年、286試合49勝41敗90セーブ、防御率3・31。82年に広島初の新人王となり、右腕の血行障害から復活し86年にはリリーフに転向。4勝22セーブでカムバック賞を受賞し、チームのリーグ優勝に貢献した。89年は最優秀救援投手のタイトルを獲得。高校時代、夏の甲子園の第60回大会2回戦、対天理戦で打たれたソロ本塁打で0−1と惜敗して以来の座右の銘は「弱気は最大の敵」。直球勝負をせず、カーブでかわそうとしたボールを本塁打されたことを悔やんでの教訓だった。


 津田が帰らぬ人となったのは、93年7月20日。まだ32歳の若さだった。東京ドームではオールスターゲーム第1戦が組まれていた。「球宴の日に亡くなったのは球界のみんなに会いたいとおもったからではないでしょう。寂しがりやですから…」。最後を看取った広島時代のチームメイトで、ダイエー移籍後も津田を励まし支え続けた、森脇浩司内野手はとても口が聞ける状態ではない夫人や家族に代わってそう話した。


 炎のストッパーの命の灯火が消えたことに、セパ両軍の選手は言葉を失った。特に広島の選手は正直なところ、球宴どころではなかった。特に津田が任意引退した後、ストッパーに再度転向した大野豊投手は津田の名前が誰かの口から出るたび涙で目の前がにじんだ。

 昨日、2011年7月20日にマツダスタジアムで行われた広島対阪神の試合、カープ前田健太阪神は岩田、両投手の投げ合いで、5回まで0対0。
 6回の表、阪神ブラゼルのタイムリーで阪神が1点先制したときには、「ああ、今日もまたカープの完封負けか……」と僕は暗澹たる気分になりました。
 しかしながら、7回の裏、2アウト3塁の場面で、ショートにゴロを転がした石原捕手は、1塁にヘッドスライディング!このタイムリー内野安打で同点に追いついたカープは、8回の裏に大ベテラン前田智徳内野手の頭をしぶとく越える2点タイムリーを放ち、サファテが締めて3対1で勝ちました。
 試合後のヒーローインタビューで、津田投手と一緒にプレーしたことがある、カープ唯一の現役選手である前田智徳は、「素晴らしい勝ちを先輩にプレゼントできたと思います」とコメントしていました。
 こういう「思い入れのある日」に惨敗してしまうというのも、「スポーツの厳しさ」ではあるのですが、津田さんの現役時代、そして、広島カープの黄金時代とともに小学生〜20歳くらいまでを過ごしてきた僕にとっても、本当に昨日の勝ちは嬉しかったのです。


 僕がリアルタイムでみていた現役時代の津田投手、とくにストッパー時代は、「調子がいいときには爽快に抑えるけれど、ダメなときはとことん打たれる」ピッチャーでした。
監督が、なんとかの一つ覚えのように「ピッチャー・ツダ」とコールするたびに、「今日はどっちだ?」と、ものすごく不安になったことを覚えています。
 血行障害に苦しむようになってからの津田投手は、ほとんどストレート一本で勝負していました。
 いまとなっては、豪快な「直球勝負」の記憶となっているのですが、当時は「そんなにストレートばっかりじゃ、そりゃ打たれるだろ……」とテレビの向こうで「炎上」している津田投手に、何度も溜息をついたものです。

 
 その強気な投球スタイルとは異なる、津田投手の「素顔」が、Wikipediaではこんなふうに紹介されています。

アマチュア時代から剛球投手として名をはせていた津田だが、それと相反するように、自他ともに認めるメンタル面の弱さも持ち合わせていた。高校時代には、監督から精神安定剤と偽ったメリケン粉を渡されたこともあったという。『弱気は最大の敵』『一球入魂』といった座右の銘や、打者に真っ向から立ち向かう投球スタイルは、元々はそのような自らの精神的な弱さを克服するために心がけていたものであった。二つの座右の銘を書いたボールを肌身離さず持ち歩き、登板する前には必ずそのボールに向かって気合を入れていた。

明るくひょうきんな性格でチームメイトやファンから愛されていた。ドラフト直前のTVインタビューで「希望の球団は特にないですけど…広島ですねぇ〜」、ドラフトで広島に指名されたあとの記者会見で「新人王ですか? ウ〜ン…狙いますねぇ〜」、―フォークボールに特徴があると聞いたが「すっぽ抜けて伸びるフォーク」、ドラフトについて「巨人(に指名されること)が不安だった。」―どういう意味で?「しつこく来られたからね」、『麹の良さが決め手』がキャッチフレーズの味噌メーカー(ますやみそ)のCMで「ウチのチームといっしょですね! ねぇ、浩二さん!」など、数々の言葉からそのキャラクターが窺える。
リリーフピッチャーとしての責任感が非常に強い選手だった。清川栄治のプロ初勝利が掛かった試合に登板し、メッタ打ちにされて清川の勝利を消してしまった時は、試合後に合宿所の清川の部屋へ、30分おきに何度も謝りに行ったという。

 初代の広島市民球場にはその功績と人柄を讃え、「直球勝負 笑顔と闘志を忘れないために」の文章が浮き彫りにされたメモリアルプレート(津田プレート)が設置されていました。
現在、このプレートは2009年に開場した広島の新本拠地MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島に移設されており、広島の投手は、試合でマウンドに向かう時、必ずこのプレートに触れていくそうです。


 僕が、いや、多くの野球ファンが津田恒実という人間に惹かれる理由は、津田さんの豪快なピッチングだけではなく、そんな津田さんが、「優しくて、プレッシャーに弱い人だった」という意外な一面にもあると思うのです。

 弱気になりがちだからこそ、津田さんは、「弱気は最大の敵」を座右の銘として、ずっと自分に言い聞かせなければならなかった。
 強気で傍若無人なキャラクターであれば、そんな必要はなかったはず。


人間は、弱いからこそ、「強くなる」ことができる。
あるいは、「強くなろうとすること」そのものが、人間の「強さ」なのかもしれません。


 津田さんが亡くなられて18年が経ちますが、僕はいまでもこの時期になると津田さんのこと、そして、野球選手としては父親を継ぐことはできなかったけれど、成長し、立派な社会人としてがんばっている(であろう)息子さんのことを思い出します。
 僕もいつのまにか、津田さんよりずっと年寄りになってしまったけれど、「弱気は最大の敵」だと自分に言い聞かせなければならなかった、心優しい「炎のストッパー」の魂のかけらは、くじけがちな僕の心で、いまも静かに燃えているのです。



もう一度、投げたかった―炎のストッパー津田恒美最後の闘い (幻冬舎文庫)

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