琥珀色の戯言

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ディズニーランドの秘密 ☆☆☆☆


ディズニーランドの秘密 (新潮新書)

ディズニーランドの秘密 (新潮新書)

出版社/著者からの内容紹介
なぜディズニーランドは特別なのか。他の遊園地との違いはその「ストーリー性」にある。そして、その「ストーリー」とは、ウォルトの人生や米国の歴史と切り離せないものだった。「最初の構想は交通博物館」「ホーンテッド・マンションがフランス風である理由」「トゥモローランドは企業パビリオン」「3つの"マウンテン"は一大方針転換」等、意外なエピソードが満載!夢の国をより深く味わえるようになる一冊。

書店でこのタイトルを見たときには、よくある「ディズニーランドのトリビア本」か、「キャストがすばらしい働きをする仕組みについてのビジネス本」だと思っていたのです。
しかしながら、実際に読んでみると、これは、「なぜ、ウォルト・ディズニーという人が、ディズニーランドをつくったのか?」そして、「ディズニーランドにあるさまざまなアトラクションは、どんなコンセプトで創られてきたのか?」が、その歴史とともに語られている本でした。
ディズニーランドのトリビアとか「ビジネス本的な分析」に、やや食傷気味の僕にとっては、かなり新鮮な内容で、興味深いものでした。


この本の冒頭で、ウォルト・ディズニーが、「ディズニーランド」で当初目指していたものとして、「最初のディズニーランド(カリフォルニア州アナハイム)」の「パートナーズ」(ウォルト・ディズニーミッキーマウスが手をつないで立っている像)には、こんな言葉が刻まれていたそうです。

 この幸せな国に来るすべての人々へ
 ようこそ。ディズニーランドはあなたたちの国です。年配の人たちは過去の優しい思い出をもう一度経験し……若者は未来へのチャレンジとそれが約束してくれるものを経験するでしょう。
 ディズニーランドはアメリカを作った理想と夢と現実に捧げられたものです。そして、それが全世界にとって、喜びとインスピレーションの源泉になることを願うものです。

 これは、1955年の7月17日、ディズニーランド開園時のウォルト・ディズニーのスピーチを書き写したものだそうです。


 この新書のなかでは、ウォルト・ディズニーがアニメーションの制作で成功を収めるまでの、ディズニー家の歴史が紹介されているのですが、一家はけっして裕福でも安定した生活を送ったわけでもなく、ゴールドラッシュ後のカリフォルニアを目指したり、鉄道に関わる仕事をしたりしながら、広大なアメリカを流浪していきます。
 そんな一家のひとりとして生まれたウォルトは、「新しい世界に連れて行ってくれる」あるいは「新しいものを運んできてくれる」鉄道、そして船が大好きな少年として育ち、それは一生変わることがありませんでした。
 ディズニーの幹部アニメーター、ウォード・キンボールという人が廃車となった機関車を手に入れて、自宅に小さな鉄道を敷いて走らせているのを見せつけられて、ウォルトは尋常ではない羨ましがりかたをしていたそうです。
 ちなみに、ウォルトはキンボールに、持っている機関車を1台譲ってほしいともちかけたことがあったのですが、キンボールは、自分の雇い主の懇願をキッパリと断ったとのこと。
 それを読んで、「ああ、森博嗣先生みたいな人が、ちょっと前のアメリカにはたくさんいたのか……」と驚いてしまいました。

 「ディズニーランド」は、そんなウォルトの「自分の鉄道を持つ夢」の象徴であり、また、ウォルトと同じように「鉄道や蒸気船とともに生きていた、古いアメリカ人の心のふるさと」を目指したものでもあったのです。


 僕はそんなにディズニーランドに詳しいわけではないのですが、「あなたが知っているアトラクションは?」と尋ねられて、最初に思い浮かぶのは「ビックサンダー・マウンテン」「スペース・マウンテン」「スプラッシュ・マウンテン」の3つです。
 ところが、これらのアトラクションというのは、ウォルトが「ディズニーランド」に望んでいたものでは、なかったようです。

 ウォルトは1966年12月15日に癌でこの世を去っています。その後もディズニーランドには、さまざまなアトラクションが加わり、その結果大きく変わりました。
 現在アナハイムにあるディズニーランドは、ウォルトが考えたオリジナル・ディズニーランドの延長線上にあるのですが、ウォルトが建設に関わっていないアトラクションがかなりあります。
 たとえば、現在もっとも人気のある乗り物、「スペース・マウンテン」、「ビッグサンダー・マウンテン」、「スプラッシュ・マウンテン」などはウォルトが生きていたときディズニーランドにはありませんでした。
カリブの海賊」などはウォルトも製作にかかわりましたが、完成したのは彼の死後の1967年でした。
「アメリカ河」のそばにあるニューオリンズスクウェアは1966年完成なのでぎりぎりセーフのようです。そこにある「ホーンテッド・マンション」も1965年から新しいアトラクションとして宣伝していたので、ウォルトは計画にかかわっていますが、完成したのは1969年なのでできあがったものを見ることはありませんでした。
 ということは、ディズニーランドが最初にオープンしたとき、そこには現在ディズニーランドと聞いて私たちが思い浮かべる「スペース・マウンテン」も「ビッグサンダー・マウンテン」も「スプラッシュ・マウンテン」も「カリブの海賊」もなかったということです。
 こういわれて読者の多くは驚かれるでしょう。「そんなディズニーランドなんて想像がつかない」という人が多いに違いありません。私も同じです。

 ちなみに、オリジナル・ディズニーランドの建設には、1955年当時で1700万ドルかかったそうなのですが、その時代には、「1000万ドルあれば、日本と韓国全土にテレビ放送のネットワークを建設することができた」そうです。
 しかも、ウォルトは、開園後も10年間で3600万ドルをかけて、ディズニーランドのアトラクションを増設・改造し、「成長するテーマパーク」という概念をつくりあげたのです。
(当時の遊園地やテーマパークは、最初に建設したら、せいぜい修繕が行われるくらいで、「飽きたらおわり」だったようです)


 この新書によると、「普通の遊園地にある、ありきたりのアトラクション」であるジェットコースターをウォルトは好まず、存命中は、ビッグサンダー・マウンテンなどのジェットコースター系のライドは、ディズニーランドにふさわしくない、と考えていたそうです。
 ところが、現在のディズニーランドの隆盛を支えているのは、この「ジェットコースター系」なんですよね。
 いやまあ、創業者の理想と観客の現実というのはそういうものだと思うし、僕も、「スプラッシュ・マウンテン」に『南部の唄』という「原作」があるなんて、全く知りませんでした。


 「ビックサンダー・マウンテン」の大成功の要因を、著者はこのように説明しています。

 このころ他のテーマパークで主流になっていた「スリル・ライド」であるうえ、豊かなストーリー性をもっているからです。そして、効果音の妙も見逃せません。ゲストにスリルや恐怖感や期待感(落ちていくときの)を与えるあの車輪の回転の音、きしむ音、弾む音は、実際にトロッコが出している音ではありません。ゲストの心を読んで、絶妙のタイミングと大きさで人工的に出しているものです。それによってゲストの心を強く、深く揺さぶっているのです。映画会社ならではのテクニックです。この効果音は「スペース・マウンテン」でも使われていますが、「ビッグサンダー・マウンテン」のものは、もっと手がこんでいます。

僕はこれまで2回しかビッグサンダー・マウンテンには乗ったことがないのですが、あの音が「全部人工的に出された効果音」であるとは気づきませんでした。
そこまで完璧に「演出」されているとは!
やっぱり、「単なるジェットコースター」ではないですよね。 

 この新書を読んでいると、「結局のところ、日本人は、ディズニーランドをアメリカ人と同じようには楽しんでいるわけじゃないんだろうな」と考えてしまいます。
 でも、アメリカ国内のディズニーランドの「アメリカという国や海軍との結びつき」や「『南部の唄』は人種差別だという批判を受けていた」というような話を読むと、「ミッキー!! キャー!!!」というような「日本人のディズニーランドの楽しみかた」も、それはそれで悪くないような気もします。

 
 ディズニーランドから何か「ビジネスについて」学ぼうという人にではなく、とにかく、ディズニーランドそのものが好きで、「どんな人たちが、どんな思いでこんなものを作ったんだろう?」と感じている人たちにオススメしたい新書です。

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