琥珀色の戯言

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第145回芥川賞選評


文藝春秋 2011年 09月号 [雑誌]

文藝春秋 2011年 09月号 [雑誌]

今月号の「文藝春秋」には、「受賞者なし」となった芥川賞の選評と候補作『ぴんぞろ』が掲載されています。
恒例の選評の抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)。

小川洋子
 私にとって最も切実な問題をはらんでいたのは、『これはペンです』だった。何かを書こうとする動機、書かれる内容、書き手の人間性になど特別な意味はなく、ただ書き方がもたらす偶然のみが言葉を決定してゆく。この理論に則って叔父さんがでっち上げる文章は、実際に今、小説を書いている者の心を揺さぶる。自分の身体の内側から搾り出すようにして生み出した、などと思っているのは作家の勝手な幻想で、実は英字パスタをスプーンですくっても同じ小説は欠けてしまう。人間が偶然の支配する世界の生き物なのだとしたら、道具になりきれない作家には、世界の真実は描けないのではないか。そんな予感がひたひたと迫ってくる。

山田詠美
 『甘露』。<顔中を覆う皺は一張羅の縮緬の襞が細かく克明な影を生み、朝の内に母が磨きあげたシルバーカーの無表情な直線との対比は、白砂利の上で匂やかな現実感を放っている>……? <鼻腔に重量のある空気の塊をねじ込まれていたような圧迫感を伴う臭い>……?? どうにも擁護しようのない理解不能の比喩が描写が続出。これだけグロテスクなエピソードを扱うなら、もっと文章力を身に付けないと。あなたが純文学らしいと思っているものは、おおいなる錯覚。

石原慎太郎
 『これはペンです』なる円城塔氏の作品は、もしこれがまかり通って受賞となったら、小説の愛好家たちを半減させただろう。小理屈をつけてこれを持ち上げる選者もいるにはいたが、私としては文章を使ったパズルゲイムに読者として付き合う余裕はどこにもない。
 総じて退屈というより、暗然とさせられた選考会だった。

黒井千次
 円城塔氏の「これはペンです」は、SF小説の力作としての強い支持が選考の場にだされたが、コンピューターの働きを土台にした作品の世界にうまくはいることが出来なかった。書かれた内容に理解は届かぬとしても、わからぬままに奇妙な面白さが伝わることはあり得るのだから、書き方にもう少し工夫があってもよかったのではないか。

宮本輝
 今回の候補作六篇、どれも上手に書かれている。その点に関しては、私は全否定する作品はひとつもなかった。
 しかし、文学の感動という、芥川賞の根幹を成す一点に、たとえ半歩でも踏み込みかけている作品もなかった。
 どれも小手先の技で大海の表面の波を描いて、その深部の大きな潮の、押しとどめることのできない力の凄さに、いささかでも心を向けようとした形跡がないのだ。


(中略)


 水原涼さんの「甘露」は父子相姦というものを単なる小道具として使っていて、書き手の魂胆に不潔なものを感じた。

高樹のぶ子
 「これはペンです」読者を挑発する問題作、これが解るかな?と。選ぶ方も小説観を問われる。小説を書くとき、イメージを創り出すことに98%のエネルギーが費やされるべきだと私は考える。イメージとは人間、場面、モノ、物語などのこと。なぜ98%かと言えば、小説の説得力浸透力は、これらのイメージが担っているからだ。言葉はそのために駆使される。けれどこの作品はそれらのイメージを一切作らず、確信犯的に理論理屈で説得しようとする。言葉の役割が違う。結果、小説的な感興は何も残らなかった。何が書いてあったのかも記憶できない。挑発されたものの、ゲームには参加できなかった。小説とは何か。あらためて自問自答する機会になった。

島田雅彦
(『これはペンです』について)

 文芸業界には「人間が描かれていない」という何も批評したことにはならない紋切り型があるけれども、誰もがおのがうちに複数の交代人格を抱え込み、TPOに応じて、名無し、顔無しの仲間になり、社会的偏見やメディア・イメージに自分を紛れさせてもいるのだから、ここで描かれている人間離れした「叔父」や「姪」は私たちのことでもあるのだ。

村上龍
 そして、その四人の女性選考委員たちは、「ニキの屈辱」という作品に批判的だった。否定したといってもよい。なぜだろうか。四人は、ともに作家としての地位をすでに確立しているが、作風も文学観もそれぞれに違う。だが、共通していることがある。これまで小説を書き続けてきて、現在ももちろん書き続けているということだ。小説を書き続けることにどれほどの困難があるか、それはここでは言及しない。だが、「好きな男にふられて写真家であることを辞めようとする」というストーリーの脆弱さ、安易さを、四人がそろって否定したのは当然かもしれないと思った。

川上弘美
 この中で、わたしは「ぴんぞろ」を、「強く推す」と「少し推す」の半ばほどの力で推しました。また、「これはペンです」を、少し推しました。どちらの作品にも、少しずつの弱さがあったように思います。ただし、弱さがきわまって、最後は強さにくるりとひっくりかえる作品も、この世の中にはきっとあるのです。ああ、小説、難しいです。


今回は、前回の2作への授賞の反動なのか、「受賞作なし」に終わってしまい、辛口の(あるいは、ダメだこりゃ、というような諦め半分の)「選評」がたくさんありました。
ちなみに、ネット上でかなり話題になっていた、村上龍さんが円城塔さんの『これはペンです』について指摘したという「科学的な間違い」については、全く言及がありませんでした。
というか、村上龍さんの選評には、『ニキの屈辱』に対するコメントだけが書かれていました。
ただし、他の人の「選評」を読んでいると、「科学的な間違い」が『これはペンです』落選の主因となったとは考えにくいようです。


『これはペンです』に対しては「斬新さ」を評価した人と、「面白くない」「わからない」と感じた人とで二極化しています。
芥川賞の選考というのは、「作品をそれぞれ○△×で評価し、選考委員の誰かひとりでも×をつけたら落選」らしいので、少なくとも石原慎太郎さんや宮本輝さんは「×」だったでしょうから(この選評を読んでいると、他の選考委員が説得してもどうしようもなかっただろうなあ、と)。


今回も山田詠美さんの「罵倒芸」は冴え渡っていますが、僕はこの選評を読んでいて、「それでは、山田さんにとっての『純文学』って、何なのだろう?」とも思ったんですよ。
この「罵倒シリーズ」読んでいて、たしかにその通りだと頷けるのですが、「先輩作家が、後輩の未熟さをキツく叩くこと」から、何が生まれるのだろう?


たしかに、山田さんが批判している(というか、バカにしている)表現は拙いと思うけれども、そういう「なんだかわけわかんない、自己満足のような表現」が、「新しさ」として認知されていく可能性もあるんじゃないかな、と考えてしまうのです。
というか、そういうニッチで理解不能な表現を突き詰めていくという方向に、もう、昔の人が考えているような「純文学らしさ」を現代に再現する方法はないのではないか、あるいは、いまの若い純文学作家たちは、確信犯的に「純文学っぽい、油っこい表現」で遊んでいるのではないか?


そういう意味では、円城塔さんの『これはペンです』に小川洋子さんや池澤夏樹さんのような「書くだけではなく、外の世界(もちろん、海外も含めて)の文学を積極的に読んでいる人」が示した「反応」は、すごく興味深いものでした。
「まわりくどい比喩」の競争ばかりが目立つ候補作のなかで、若手作家(円城さんは、もう「若手」じゃないかもしれませんが)の「新しい文学の様式」への挑戦を好意的に評価しようとする選考委員もいれば、石原慎太郎さんのように「もしこれがまかり通って受賞となったら、小説の愛好家たちを半減させただろう」とまで言う選考委員もいる。
もちろん、こういう「価値観の異なる多数の選考委員がいる」ことが、芥川賞にとっては大きなメリットでもあるのでしょうが、いまの「小説を読む人の減少傾向」を考えると、『これはペンです』を受賞させなくても、「石原慎太郎さんと同じような価値観を持つ小説の愛好家」は、数十年のうちに「絶滅」してしまいそうな気がします。
それならば、座して死を待つよりも、「新しい可能性」を積極的に評価してみる、というのもひとつの手ではないかと。


石原さんは、「私としては文章を使ったパズルゲイムに読者として付き合う余裕はどこにもない」のかもしれないけれど、僕のような、「コンピューターにずっと触れてきた本好き」には、「文章を使ったパズルゲイム」って、けっこう面白そうだな、と感じる人も多いはずです。
むしろ、そういう方向にこそ、「文学が生き残る道」はあるのかもしれません。


それが「純文学」なのか?
僕は、「売れなくても、新しい可能性に挑戦するのが純文学」だと思っているんですよ(ちなみに、芥川賞の選考対象は「純文学か?」ではなくて、特定の文芸誌に掲載された作品かどうか?です)。
僕個人としては、『これはペンです』はあまり面白くなかったし、受賞しなかったのもしょうがないかな、と考えています。
宮本輝さんじゃありませんが、「小説」というのは、ある程度は「面白い」(興味深い、読む必要性を感じるというのも含めて)ものであってほしい。
でも、「純文学らしくない」という選考委員の言葉には、、なんだかとてもがっかりしました。
「純文学らしくない作品」を生み出し続けていくことこそが、「純文学らしさ」じゃないのだろうか?

最後に、今回で選考委員を退任されるという池澤夏樹さんの選評を御紹介しておきます。

池澤夏樹
 円城塔さんの「これはペンです」において、ストーリーとキャラクターは希薄で、作品世界を支えるには至らない。語り手の「姪」の目から見ても「叔父」はほとんど姿がない。叔父の行状を時系列で辿ってもその人生は見えない。叔父は一個の人格ではなく、一連の奇想の束を示す記号かもしれない。
 作者は、文字、記述、暗号、文章や論文の自動生成、論文の相互盗作、ゲーム、脳、妄想、DNA、などに関する雑多な話題を矢継ぎ早に提示する。それが一つずつ捻られ、歪められ、修飾されて頼りない連鎖を成す。
 ふわふわとして、ユーモラスで、このゆるさは値打ちがある。「わたしの筆跡は、わたし自身が真似しやすいようにできている」という自己言及的なセンテンスのナンセンスの風味が全体に充満している。


(中略)


 というような自分勝手な脚注を加えながら読む者にとっては、これはずいぶん楽しめる作品である。その一方、これがぶっ飛びすぎていて読者を限定するものであることは否定できない。純文学の雑誌がこれを掲載したこと、それがこの賞の候補作となって選考の場に登場したことに(授賞はまず無理だろうと思う一方で)ぼくは小さな感動を覚えた。
 十五年続けた選考委員を今回で辞する。最後にこういう作品に出会えたことを嬉しく思う。

池澤さんは、芥川賞の選考委員のなかで、いちばん「若手の新しい試みの良いところを見つけて、評価してあげよう」としていたし、「世界の文学のなかで、日本の『芥川賞』という有名文学賞は、どうあるべきか」を広い視野でみていた人だと思います。
いろんな事情があったのでしょうが、池澤さんの退任は、とても残念なことです。
なにはともあれ、池澤さん、長い間、おつかれさまでした。


本当は、「村上龍さんが指摘していた(らしい)、『科学的な誤り』と作品としての評価」について僕なりの考えを書くつもりだったのですが、ここまででかなりの長さになってしまったので、その話はまたいずれ。

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