夜、恩師のお祝いの飲み会のあと、ちょっといい気分でタクシーを拾った。
家まで4000円くらい、向こうにとっても「上客」だったのではないかと思う。
しかし、このタクシーが見事なまでの「ハズレ」だったのだ。
僕は基本的に、必要最低限のことしか喋らない運転手さんが好きなのだけれど、この日の運転手の初老の男性は、僕の理想とは正反対だった。
「上客」だから話しかけなければならない、と考えていたのかもしれないけれど、気乗りしない口調で生返事をしている僕にプライベートなことを根掘り葉掘り聞き出そうとし、以前乗った他のお客の悪口をグダグダと続けていた。
「もう黙って運転してくれ」と言いたくなったのだけれど、せっかく恩師と良いお酒を飲んでいい気分になっていたのに、ここで波風を立てるのも勿体ない、と自制しつつ、家に着くのを待っていた。
悪い予感はしていたのだ。
繁華街で、そのタクシーに乗り込み、車で20分くらいの、僕が住んでいる比較的大きなマンションと最寄り駅を告げたとき、その運転手は、「ああ、あのへんですか」と、曖昧に答えていた。
この人は、僕が指定した目的地を知らないのではないか?
でもまあ、近くまで行ってくれれば、道案内するからいいや。
そう思いながらスタートしたうえに、車内でこんな責め苦を受けるとは……
こういう人の特徴は、「とにかく自分が喋り続けることがサービスで、相手の反応など見てはいない」ということだ。
ようやく家が近づいてきて、やっと解放される……と安心しかけたそのときのことだった。
僕が教えた最寄り駅に行くためのインターチェンジを、その運転手は、軽やかに通り過ぎていった。
「えっ?」
そのまま、どこまでもまっすぐ行ってしまいそうな勢いで、くだらないことを喋る続ける運転手。
さすがに僕も、「あの、○○駅の近く、って、言いましたよね?」と確認した。
ところが、その運転手は、「ああ、そうでしたか。お客さん、道を覚えてなかったのかね」と宣ったのだ。
タクシーの運転手に目的地を告げ、「わかりました」と言われたら、「目的地と、そこまでの妥当なルートは把握していますよ」という意味だと大部分の人は思うはずだ。
にもかかわらず、この人、お客のせいにしやがった……
しかも、内心焦っているのか、農道みたいな細い道に突っ込み、行き当たりばったりで曲がろうとする運転手。
わからないのなら、とりあえず客に聞けよ!
知らないくせに安請け合いして、間違ったら客のせいかよ!
せめて無線で会社か同僚に聞けよ!
ちなみに、僕が告げた駅もマンションは、けっして、「誰も知らないような場所」ではない。
むしろ、あの付近で知らない人を探すのが難しいくらいの場所なはずだ。
「じゃあ、ここでメーター止めますから」
そういって運転手がメーターを倒した時点での料金は、まっすぐ目的地に着いたときよりも1000円くらいは高かった。
この運転手、お金をもらうときに、はじめて、「すみませんね」と言ったのだが、日頃は店で食事をするときには「ごちそうさま」を欠かさない僕も、さすがに何も言わずに早々にその場を立ち去った。
いやほんと、せっかくの良い気分が台無しだ。
こんな目にあいながら、先日読んだ伊集院静さんの本の、こんな一節を思い出していた。
当人がどれだけ注意していても災難の大半は向こうからやってくる。交通事故と同じだ。
スイスの登山鉄道、ユタ州の自動車事故と楽しいはずの海外旅行での悲劇が続いた。
自動車事故の方は原因がまだはっきりしないが、運転手の過労による運転が取り沙汰されている。同業者の弁で、何度か車が右に左にゆれるように走ったと言う。
このことが事実だとしたら、なぜ誰かがその場ですぐに運転手に注意しなかったのか、それが私には解せない。
時々、私は遠出のときやゴルフで車を手配されることがある。『その折、運転が危険だったり妙に思えると即座に運転手に訊く、
「君、疲れているのかね」
「い、いいえ」
それで運転が直らなければ高速道路だろうが、山の中であろうが、
「君、車を止めなさい」
と言って下車し、タクシーなり別の交通手段を選ぶ。これがもう三、四度あり、口では言わないが、その車を手配した会社とはなるたけ仕事を住まいと決めている。
一人旅より、団体旅行の方が事故が多いのは、旅に危険はつきものだという根本を忘れがちになるからだろう。
よく旅慣れているのでという年輩者がいるが、それは団体旅行で慣れているのが大半で、危険が近づいていることにすら気付かないで来た人がほとんどだ。
僕は、この話を読んでいたし、「感心」もしていたのだ。
自分の身を守るためには、このくらいの「覚悟」というか「注意」が必要なのだな、と。
この話を読んで、僕は「フラフラ走っているタクシー」や「途中で平然と携帯電話で話しているタクシー」に乗ってしまい、ひたすら自分の不運を呪い、「なんとか無事に目的地についてくれ……」と祈っていたときのことを思い出した。
それこそ、「街中だし、少しの時間のロスを受け入れることができれば、いくらでも他の車に乗り換えられる」にもかかわらず、「目的地はすぐ近くだから」とか「あれこれ言って、こんな困った運転手とのトラブルに巻き込まれるのはめんどくさいから」などと考えてしまう。
もしそれで事故に遭ったら、ずっと後悔するはずなのに。
「やっぱり、悪い予感がしていた」って。
僕は、この本の感想で、こんなふうに書いていた。
過去の事例でも「自分の力で避けられたはずの事故」って、けっして少なくないはずなんですよ。
一時的なトラブルが起こるとしても、ちゃんと「避けられるリスクは避ける」というのは、すごく大切なことではないかな。
それがなかなか「できそうでできないこと」なのですが、そんな言い訳は、もうやめたい。
はい、そんな言い訳、全然やめてなーい!
人って、一度乗ってしまった「流れ」に逆らって、自分の判断で道を切り開くのは、本当に難しいことだな、と思う。
こんな、「すぐに他のタクシーに乗り換えられるはずの状況」だって、「もう降ります!」というのには、かなりの勇気が必要なのだ。
「わかっているけど、なんとなく大丈夫だと思いこんでしまった」
そう言う人を、みんなバカにするけれど、少なくとも、日本の社会の大部分は、そういう人によって構成されているのではないかなあ。
伊集院静さんみたいな人ばかりであれば、世の中に、あんなに酷いタクシーが蔓延することはないはず。
素晴らしいプロの運転手さんに巡り会うことだって、あるのだけれど……
ああ、伊集院静への道は遠いなあ……
危険なタクシーを乗り換えることすらできない人間が、自分の道を自分で切り開くことなんて、できっこないよねやっぱり……
昨夜は、それを思い知らされたよ……