琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

困ってるひと ☆☆☆☆


困ってるひと

困ってるひと

内容紹介
難病女子による、画期的エンタメ闘病記!

ビルマ難民を研究していた大学院生女子が、ある日とつぜん原因不明の難病を発症。自らが「難民」となり、日本社会をサバイブするはめになる。
知性とユーモアがほとばしる、命がけエッセイ!!


【推薦のことば】

究極のエンタメ・ノンフィクション。今困ってるすべての人に読んでほしい。
──高野秀行(作家)


想像を絶する難病者の日常なのに、ここに書かれているのはあなたや私の姿だ。この現代の「神曲」に、私はいくども救われ続ける。          
──星野智幸(作家)


著者が本書を通して、現代日本社会に刻み続けているのは、絶望の淵にあっても、すべてを肯定してみせる「世界観」である。
──清水康之(自殺対策支援センターライフリンク代表)


みんなでこの本を本気で売りましょう。そのぶんだけ、この社会が豊かになりますから。そういう力のある本です。                
──荻上チキ(評論家)

最近書店でかなりプッシュされているこの本。
僕は「闘病記」ってちょっと苦手なので(どうしても医者への悪口とか書いてありますからね……自分もこんなふうに思われているんだろうな、って、つらくなってしまうのです)、ずっとスル―していたのですが、ついに購入。一晩で読みました。


「難病モノなのに面白い!」という評判に、偽りはないと思います。
これだけ「重い」話を、こうやって「笑い」に昇華できるって、ほんとうにすごいなあ。


ただ、医者という職業をやっていると、「自分は大野さんのような患者に、何ができるのだろうか?」と考えてしまって、笑えないのも事実なのです。
僕は、「わからないから、専門の病院で診てもらって」と、「見捨てる医者」になってしまいそう。
珍しい病気、難しい病気に関しては、その専門の医者以外には、「とにかくわかりそうな人に紹介する」ことしかできない。

 当日、両親と車で6時間かけて東京へ。さらに待合室で2時間待って、ようやく診察に呼ばれた。
 レントゲンのフィルムと、血液データだけをさらっと見て、「ふうん」。
「まあ、膠原病のような病態ですが、はっきりと確定診断できる要素がないんですよねえ。なりかけのような状態なのかもしれませんがねえ」
 いや、要素とかじゃなくて。数値とかじゃなくて。基準とかじゃなくて。病名とかじゃなくて。一年間、石みたいに固まって、激痛で、熱が下がらなくて、もうとにかくどこもかしこも痛いんですが、死にそうなんですが。医者って、病気のひとの苦痛を軽減してくれるのが、仕事じゃないんですか。ずっと前から思ってたんですけど、どうして、日本の大きな大学病院って、入院とかさせてくれないんですか。こんなに具合が悪いのに。どうして、何時間も、何週間も、何か月も待たせて、延々と外来に通わせて、だらだらと中途半端な検査ばっかりして、誰も、何も、してくれないんですか。患者は、病院に通うだけでどんどん悪化しちゃうじゃないですか、これじゃあ。
 エライ先生を目の前にして、口には出せないが、頭の中でワンワンと、言葉にならない言葉がゆきすぎる。で、最後に何をおっしゃるかと思えば、
「福島に、お帰りになってはいかがですか」
 一瞬で、切られたことがわかった。めんどくさそうだから診る気ないよ、と表情がはっきり語っている。これが白い巨塔の実態ですか。そうですか。失望、絶望で呆然としながら、会計でさらに1時間待たされた。
 何があっても、もう二度と、行かない。

こういう患者さんを、僕も、大勢、「入院させないで」診てきたのだなあ、と思います。
多くの大学病院は、つねに満床で、入院予約をしてから1か月待ちなどというのが、当然の世界なのです。
「急患」の場合は即日入院となることもありますが、そうするとまた、予約でベッド待ちをしている患者さんの入院が遅れていきます。みんな早く入院したいのはわかっていても。
ならベッド数を増やせば……と言っても、そのためには、物理的なスペースも、スタッフの人数も足りない。


でも、「患者さんはみんな、こんなふうに思っているんだろうな」ということが率直に書いてあって、なんだか読んでいてすごくつらかった(もちろん、参考にもなりました)。


僕はどうしても「病院のスタッフ目線」になってしまいます。
大野さんが入院されていた「オアシス病院」のスタッフたちは、本当に献身的な医療をしていたのだな、と頭が下がります。
主治医の先生は、「土日祝も、ほとんど一日も休まずに毎日2〜3回は部屋を訪れてくれた」とのころなのですが、ああ、この先生たちは、あんまり家には帰れていないんだろうな、と考えてしまうのです。
マンパワーが有限であるかぎり、誰かに対して「手厚く接する」ためには、かならず「手薄になる」ところが出てきます。
いや、「お前がその職業を選んだんだろ?」と言われればその通りではあるのですが……


この本を読んでいて、僕がいちばん気が滅入ってしまったのは、この場面でした。

 先生が去っていったあと、タイツもなんとか脱いで、ジンベイ病衣に着替え、お化粧も洗い流して、わたしは有袋類の難病女子に元通り。うん、これでおしまい。
 明日は週に一度の、臨床心理士の先生が来る日である。せめて、このカオスな気持ちの整理でもしておくか。ナースステーションの脇、患者用の机が置いてあるスペースに、車いすを借りてきて居座り、紙とペンをひろげた。おしり洞窟は常にキリキリと痛んだが、椅子よりは車いすにクッションを置いて微妙な半ケツ状態でいたほうが、なぜか若干マシだったのである。とにかく、カウンセリングの準備のために、メモを書きだそうとしていたときだった。
 聴いてはならないものを、聴いた。
「見た? あれ。靴下もはけないとか言って、タイツなんかはいて。浮かれちゃって」
「痛い痛いとかって、好きなことはできんじゃないの」
「さすがにタイツ脱がせて診察するのは大変だ、あはは」
 看護師さんと、クマ先生の、声だった。
 わたしは。

……主治医のクマ先生は、「難しい病気」で「若い女性」である大野さんに、それまで、献身的に接していましたし、治療のために戦う「同志」でもあります。
それでも、こんなひとつの「言葉」で、人と人との信頼関係には、大きな亀裂が生まれてしまうのです。
人間、陰で何を言われているかなんて、わかりませんし、たぶん、知らないほうがいい。
病院のなかでも、普段のさまざまなストレスもあって、こういう「無防備に人を傷つける言葉」が発せられることがあるのです。
そして、一度口から出た言葉は、もう「なかったこと」にはできない。
これはもちろん、医者と患者のあいだだけの話ではないけれど。


この『困ってるひと』を読んでいると、「難民や被災者といったメディアで採り上げられやすい『困ってる人』」だけではなく、日常のなかにも『困っているひと』がたくさんいるということに気づかされます。
それに対する、行政の「支援」のありかた(病気で動けない人に対して、ものすごい数の書類の申請を要求したり、公的なサービスがあまりに短時間だったり)を読むと、「ああ、日本はいままでもずっと、リーマンショック以前から、いや、戦後ずっと『貧しい国』だったんだな……」と考えずにはいられません。
そして、その行政サービスも、それぞれの地域によって、かなりの差があるのです。
豊かな地域では、行き届いたサービス、予算がない地域では、ひたすらサービス削減……
同じ日本でも、患者さんの「病状」とは関係なく、「地域格差」が存在しています。


そして、僕はこれを読みながら、大野さん本人のつらさはもちろんなのですが、大野さんをサポートし続けている周囲の人々のことも、いろいろと考えてしまいました。

「何でもするよ」
「何でも言って」
 それは、「その場」「その時」の、そのひとの本心だと思う。優しさだと思う。そんな言葉を言ってもらえること自体が、有り難いことだと思う。
 でも、ひとは、自分以外の誰かのために、ずっと何でもし続けることは、できない。
 わたしの存在が、わたしの周囲のひとたちにとって次第に重荷になってきていることを、心の底ではわかっていたけれど、見て見ぬふりをした。まるで、わたしのお見舞いが「義務」や「責任」のように、みんなの肩に重くのしかかっていた。
 わたしはいつまでたっても、辛そうで、絶望していて、行き場がない。わたしの病は、「難病」である。いつまでも治らないのだ。そんなわたしを見守り続け、サポートし続けるのは、きっとすごく忍耐の必要なことだっただろう。
 お見舞いに来てくれる友人たちの表情が、暗く切ないものに変化していった。なんとなく、わたしと話していると、相手も辛そうだった。
 わたしは、周囲のひとの心が次第にわたしから遠ざかっていくのを、感じた。


 三月末のある日。
 Mちゃん、Aちゃん、Yちゃん、三人がそろって病室にやってきた。三人は、深刻な面持ちで、こう言ってくれた。
「いろんなひとの、負担になっていると思う」
「こんなことを言うのは残酷だと思うけれど、周囲で噂にもなっているんだよ」
「それは、更紗にとって、いちばんよくないことだと思う」
 わたしは、押し黙った。言葉が浮かばなかった。
 絶句するのも当然である。なぜならば、このいまの自らの状況が、わたしが大学生活四年間のすべてをそそいで「研究」し学んだはずの、難民への援助の矛盾にぴったりそのまま当てはまっていたからだ。わたしの学部の卒業論文のタイトルは、『援助は誰のものか』である。


 わたしは、途上国や難民キャンプで「援助」することの難しさ、アンバランスな援助に依存する構造を生み出してしまう現実、「ひとを助ける」ということがいかに複雑で難しいか、ということを、論文に書きつづっていた。

 こういう場面で、自分の立場を客観的にみて、こうやって文章にするのは、つらかっただろうな、と思います。
 でも、だからこそ、この『困ってる人』は、「読んでおくべき作品」になっているような気がします。
 「著者が悲劇のヒロイン」ではなくて、「生きる」というのは、人と人が助けあうことでもあり、またその一方で、傷つけあうことでもあり。


 大野さんを、ずっとサポートしてきた友人たちや医者を責めることなんて、僕にはできない。
 僕には、あれほどのことは絶対できない、とも思う。
 しかしながら、そこには「本人の力だけで生き延びることが難しい命」がある。
 「国が悪い」「政治が悪い」とは言うけれど、そこには「国にも地方にもお金がない」という現実もある。


 僕はこれを読みながら、「こんな辛い話を、エンターテインメントにしてしまう大野さんはすごいな」と感じました。
 でもね、「こんな本がベストセラーになってしまったら、難病で苦しんでいる人が弱音を吐いたり、鬱々として過ごすことが許されない社会になってしまうのではないかな」とも思うのです。
「大野さんは、あんなに明るく生きていっているのに、この人ときたら……」って。

 
 いろいろ書きましたが、「面白くて、ためになる本」です。
 さらさらと読めるのだけれど、読み終えると、ずしりと重い。
 そもそも、病気というのは、誰にとっても(もちろん僕にとっても)「他人事」じゃないのだから。
 

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