琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

世界屠畜紀行 ☆☆☆☆


内容(「BOOK」データベースより)
「食べるために動物を殺すことをかわいそうと思ったり、屠畜に従事する人を残酷と感じるのは、日本だけなの?他の国は違うなら、彼らと私たちでは何がどう違うの?」アメリカ、インド、エジプト、チェコ、モンゴル、バリ、韓国、東京、沖縄。世界の屠畜現場を徹底取材!いつも「肉」を食べているのに、なぜか考えない「肉になるまで」の営み。そこはとても面白い世界だった。イラストルポルタージュの傑作、遂に文庫化。

2007年に単行本が解放出版社から出たときも、かなり話題になったのを覚えています。
当時、僕も紀伊国屋で単行本を買ったのですが、「そのうち読もう」と思っているうちに、なんとなくどこかへ行ってしまったんですよね。


僕は「肉が食べられない子ども」でした。
「動物さんを食べるなんて、かわいそう……」
「焼鳥になるのは、悪い鳥だ」と信じていましたし。

もちろん、魚も全然ダメ。
肉は大きくなるにつれて、原型をとどめていない分、食べられるようになったのですが、焼魚や煮魚などの「原型をとどめている魚」は、いまでも苦手です(大人なので、出てくれば食べますが)。
イカなどの「活き造り」で、まだ動いている魚を嬉しそうにつついて、「ああ、動いてる動いてる!」と喜んでいる人を見ると、「動かすなよ!」と心の内で叫んでいます。
「かわいそう」というか、「もし自分がこんなふうに活き造りになって、自分が食べられるところをリアルタイムで見せられたら、つらいだろうな……とか、つい想像してしまうのです。
さっきまで動いていたイカが天ぷらになってしまうと、「もうこうなってはどうしようもないよね」とバクバク食べはじめるのですけど。
もし、牛とか鳥の「活き造り」があったら、僕は食べられないと思います。


この本のなかでは、世界各国で「屠畜」を大切な行事のひとつとしてきた人たちや、生業としてこの仕事に就き、続けてきた人たちの姿や高度な技術が、著者の目と手(イラスト)によって描かれています。
もちろんそこでは「差別されてきた、『屠畜従事者』の歴史」も語られています。
大きな動物を、あっという間にひとかたまりの「おいしそうな肉」にしてしまう見事な手際を紹介するときに著者が紡いでいく言葉には、「ああ、この人は、本当に『屠畜』という行為が愛おしいんだなあ、と感じさせられるのです。
著者は、「人間に食べられるために殺される動物」も「みんなが食べやすい肉をつくるために、屠畜場ではたらく人たち」も、同じように好きなんだなあ、と。


この本を読んでいると、「肉を毎日食べているくせに、屠畜という行為になるべく近づかないようにしている自分」が、ものすごく悪いことをしているような気がしてきます。
でも、僕自身には、やはり、生きている動物の命を自分で直接奪うこと」には抵抗があるのです。
「間接的にお前が殺しているようなものだ」と言われればその通りなのだけれども、流れていく赤い血や、ぬくもりや目の光が失われていく様子を想像すると、「ぜひ見てみたい」とは思えません。
もちろん、安全な肉を毎日うみだしてくれている人たちを差別する気持ちは、無いつもりなのだけれど。

 動物を殺すのがかわいそう、怖い。
 結局のところ、この感じ方の問題にたどり着く。
 屠畜場で働く人の中には、かわいそうと思う気持ちじたいを変えていかないと差別はなくならないと考える人もいる。
 ただ、いろんな国の人たちに直接たずねたり、海外文学作品を読んでみると、動物をつぶすことをかわいそうだとするのは、日本人(差別が存在する韓国やインド、ネパールなどを含む)ばかりではないのだ。個人差もあるが、ヨーロッパ人でもアメリカ人でも、動物を殺すことをかわいそうだと思うのだ。『羊たちの沈黙』(トマス・ハリス著 新潮文庫)の女性主人公は、羊を絶命させるときの悲鳴がトラウマになって、大人になっても苦しむ。
 だからといって、彼らが家畜をつぶしたり、皮を剥いだり、鞣したりする人を特別に差別することはないし、ましてや自分の仕事を近所の人に偽ったり、結婚のときに相手の親族が大反対することもない。かわいそうだと思うことと、その仕事をする人を差別するということがつながっている日本の状況を説明するたびに呆れられ、ときにはさげすみの視線を向けられた。口惜しいが事実だから仕方ない。
 けれどもやっぱり、かわいそうという気持ちが、仏教の不殺生戒を生み、部落差別の源泉のひとつとなり、そして今、部落差別についてなんの知識もなくても、屠畜場で働く人や皮を鞣す人に対して残酷だとか、怖いとか、近づきたくないと思ってしまう大きな原因となっていることは確かだろう。

「お前も肉を食べているのなら、屠畜の現場を知るべきだ」
著者は、そんなことを読者に強要しているわけではありません。
むしろ、「屠畜の世界では、こんなに凄いワザが伝承されているんだよ!」「こんなのみせてもらちゃった!」と、友人に気軽に教えてあげるような雰囲気ですらあります。
にもかかわらず、僕はこれを読んで、「自分が見たくない、やりたくない部分を他人にしてもらって、『美味しい肉』を日々食べている」ことへの「うしろめたさ」を感じずにはいられなかったんですよね。
その一方で、「こんなふうに自分が手を下すことなく、肉が食べられるようになったことこそが、これまで人類が努力してすすめてきた科学技術の成果ではないのか」と開き直ってみたくもなります。


いまの時代に、あえて「屠畜」を子どもたちに見せることが「正しい」のか?
見ずにすむのなら、そのほうが「幸せ」なのではないか?


やっぱり、「読んでいると血のにおいがして、ちょっと気持ち悪くなった場面」も、いくつかありました。
それでも、「知らなければならない」のか?


僕なりにいろいろ考えてはみたのですが、正直、いまの僕にとっては、「見なくてすむのなら、見たくないもの」ではあります。
人は食べないと生きていけない。
でも、「自分の手でやらなければならないのなら、肉は食べなくてもいいや」と考えてもみるのです。
もちろんこれは、「肉がなくても、他のものを食べればいいや」っていう、飽食の時代の気分なのだとしても。

 BSE全頭検査がはじまるまでは、こうして処理の終わった品物を切り分け、仕分けして、夕方にはお客さんのもとへと配達していた。都内には捌きたての新鮮な内蔵を出すのが自慢の焼き肉屋、焼き鳥屋があったのだ。
 ところがBSE全頭検査が実施され、内蔵もほほ肉も、筋も、焼却処分にする頭や蹄まで、す・べ・て、検査が終わるまで保管しなければならなくなった。
 バラす前の牛なら、と畜番号もひとつつければ済むけれど、バラバラにした内臓のひとつずつに、それぞれと畜番号をつけて管理しなければならない。枝肉に比べて、めちゃくちゃ手間がかかるんである。もちろんその辺に置いときわけにもいかないから、巨大な保冷庫が新たに設置された。電車の冷蔵コンテナが6つ並んだものだ。ここに下処理を終えて、と畜番号をつけた内臓がプラケースに入って積み上げられている。万が一にも検査で擬陽性反応が出たら、すぐに番号をたぐって、ミノもセンマイもギアラもハチノスも、小腸もコブクロも、大腸も、きっちりそろえて提出(返品?)できるようになっている。
 さすがに筋はラインごとでの管理になるそうで、擬陽性が出たら175頭分、つまり350本丸ごと回収される。筋を取ったあとの蹄や脂なども同じだ。

この本を読んでいて、日本の屠畜場の衛生管理の厳しさに驚かされましたし、それを日々忠実に行っているスタッフの姿と仕事へのプライドに、かなり安心もできました。
多くの「プロの職場」はそうなのだけれど、メディアや僕たちが頭のなかで生み出している「イメージ」よりも、はるかに「細心の注意が払われている」のです。


軽やかに「禁忌」に踏み込んでいる、とても興味深いドキュメンタリーでした。
僕自身は、これを読んでもやはり、「自分と屠畜とは、いまくらいの距離感がいい」のですけど……



そういえば、こんな映画もありました。

ブタがいた教室 (通常版) [DVD]

ブタがいた教室 (通常版) [DVD]

この映画の僕の感想はこちらです。
僕はこの映画の「曖昧な結論」こそが、いまの大部分の日本人の本音じゃないかと思うのだけど……


参考リンク:invisible-runner, 命がなくなる瞬間

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