琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

人生、成り行き ☆☆☆☆


人生、成り行き―談志一代記 (新潮文庫)

人生、成り行き―談志一代記 (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
立川談志。そのセンスと頭脳で落語に革命を起こし、優れた弟子を世に送り出した、まさに至宝である。五代目柳家小さんへ入門、寄席・テレビで人気を得、時代の寵児となる。政治の季節を過ごし、芸に開眼。落語協会分裂騒動ののち、自ら落語立川流を創設する―。談志が、全幅の信頼を寄せる作家・吉川潮に、波乱万丈の人生を語り尽くした。弟子代表・志の輔との対談も収録。

先日、浅草演芸場に行って、2時間ほど落語や漫談を聞きました。
そのなかで、落語家のうち2人が、「立川談志ネタ」をやっていたんですよね。
5人のうち2人というのは、すごい高確率。
しかも、「談志ネタ」って、ウケるんですよこれが。
「笑わない客がいたんだけど、談志師匠はその客に寄っていって、『どうしたの?体調悪いの?』って心配してた」
「笑わない客の胸倉をつかんで、『なんで笑わねえんだ!』と文句をつけていた」
ある意味、存在そのものがひとつの「芸」になってしまった男、立川談志


この本では、談志師匠による「半生記」が語られています。
5代目柳家小さん師匠への入門、真打ちへの昇進、テレビで人気者となり、国会議員にも当選したこと。
そして、「落語教会分裂騒動」を巻き起こしたのち、「立川流」を創設。
読んでいると、ものすごく面白いのですが、その一方で、あまりに奔放な語り口に、「これはどこまでが事実で、どこまでがネタなんだろう?」と考えてしまうのも事実です。
いやほんと、プロレスでいえば猪木さんみたいなもので、「人生そのものがネタになっている人」なんですよね談志師匠って。

この本のなかで、僕がいちばん興味深かったのは、談志師匠が、「落語」あるいは「芸」について語っているところでした。

――この前、師匠は高座のまくらで拉致家族の問題にも触れてましたね。


談志:あれもそうです。勿論、娘さんを理不尽にもよその国家に攫われた親御さんの気持ちはいかばかりかと思います。けれどそれと、「あの両親はいいな、生きがいを与えられて、テレビに一杯でて有名になれて、アメリカの大統領にも会えててん…なんだあの野郎、拉致太りじゃねえか」という、人間として一番最低の声を圧し殺すのは別問題です。こういう非常識な発言が聞けるのが、昔は寄席だったんです。テレビじゃ無理でしょ、そうするとこういう人間の感情の噴き出し口がなくなっちゃう。
 あたしだって、50年以上芸人をやってきた人間ですから、これを言ったら客から非難囂々でソッポ向かれると思えば口にしません。でも高座であたしが言うと、どっかんどっかん受けるでしょ? 勿論あたしのキャラクターということはありますが、みな、どこかで今の状態が不健康だということを察知しているし、意識の底で「拉致太り」だと思っている部分がほんの少しだけでもあるんですよ。


――しかし絶対テレビじゃ言えませんよね。カットされちゃう。

これを読むと、「昔の寄席の役割を果たしているのが、いまのネットなのかな」と考えてしまいます。
ネットも、軽々しくものを言えなくなってきており、一般人でも「炎上」する時代ではあるのですけど。


また、参議院議員時代に自民党を離党し、政務次官を辞任したあとの、こんな話もありました。

 浅草演芸ホールに行くと、おれがそばにいるのに、呼び込みの野郎、見事なもんだよ、「さあさあ、いらっしゃい、いらしゃい、政務次官をしくじったやつがこれから出ますよー」って平気でやってるんだ。でも、それで正解なんだね。この時、芸に対してーーこの言葉をここで使ってもいいと思いますが――<開眼>したナ。
 もうおれが高座に出るだけで客の反応が凄いんだ、ウワーッって二階の天井が抜けるみたいでした。「やっと最下位で当選して政務次官になったと思ったら、やられたーっ」ドカーンってね。沖縄開発庁長官で、おれが問題になったとたんに手のひら返すみたいなことをした植木(光教)って議員がいましたがネ、選挙区が京都だったかな、「あの莫迦、ただおかねェ。今度はあいつの選挙区で共産党から出て落っことしてやる」ウエーッ。「おれはな、イデオロギーより恨みを優先させる人間だからな!」大拍手大喝采ですヨ。
 ここで、<芸>はうまい/まずい、面白い/面白くない、などではなくて、その演者の人間性、パーソナリティ、存在をいかに出すかなんだと気がついた。少なくとも、それが現代における芸、だと思ったんです。いや、現代と言わずとも、パーソナリティに作品は負けるんです。それが証拠の(明治の四天王の一人で、ステテコの三遊亭)円遊であり、(大正から昭和初期にかけての柳家金語楼でありという<爆笑王>の系譜ではなかったか。その一方、彼らのパーソナリティに負けちゃうんで、<落語研究会>といった作品を守る牙城ができたんじゃないのか。もう少し考えを進めると、演者の人間性を、非常識な、不明確な、ワケのわからない部分まで含めて、丸ごとさらけ出すことこそが現代の芸かもしれませんナ。
 ただ、あたしには<うまい芸>への郷愁はあります。「うまくないとイヤだ」という部分が残っていて、そこにギャップはあります。志の輔なんかも、このギャップにはどこかで気づいてるんじゃないかな。

「うまい芸」か「パーソナリティ」か?
もちろん、どちらか一方だけで成り立つものではなくて、それぞれが混じり合って、「芸人」が成り立っているのでしょうけど、どんな「うまい芸」も、演じる人間の人間性(というか、キャラクターの力、というべきでしょうか)には勝てない面があるのでしょう。
逆に、「どこまでが『作品の力』なのか?」ということも、考えればキリがなさそうです。


「おかみさん」の話や、柳家小さん師匠の話、政治家になったときのエピソードなど、「どこまで本当なのこれ?」と思いながらも読み進めてしまう本です。
 「面白い自叙伝」が読みたい人は、読んでみて損はしないと思いますよ。

アクセスカウンター