琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

賢い人たちが、なぜ「賢明とは思えない選択」をするのか?

参考リンク(1):自分が見捨てられていることにすら気づいていない人たち(琥珀色の戯言)


一昨日の話の続きです(上記「参考リンク(1)」参照)。


僕は最近、人間の「賢さ」って何だろう?と、考えることが多くなりました。
3月の大震災と原発事故に対する、周囲の人たちやネット上の反応などをみていると、大学の先生や偏差値の高い学生、「情報通」を自認している人たちが、みんなそれぞれの「意見」を表明しているのだけれども、結局のところ、どれが正しいのか、どんどんわからなくなってきています。
「明らかにヘンなことを言っている人」は、さすがに見分けがつくのだけれども、グレーゾーンはあまりに広大です。
専門的な話になると、門外漢には、評価不可能なところが、どうしても出てきます。
たとえば、「肝臓ってひとつしかないの?」っていうくらいの、からだに対する基本的な知識しか持たない人に対して、肝臓の病気を30分の「家族説明」で本当に「理解」してもらうことができるのかどうか?


結局のところ、「勉強」というのは、自分の専門とするジャンルで、なんとかごはんを食べられるようになるくらいで十分なのかもしれないな、という気もするんですよ。
「勉強のための勉強」をはじめると、キリがない。
そして、それが本当に人を幸せにするのかどうか?
勉強は、すればするほど、人を「賢明に」するのかどうか?
たとえば、ネット上の「読書家」はみんな「とにかく本を読め!」って言うけれど、それを実行している彼らの行き着く先が「アフィリエイトで生活する書評ブロガー」だというのが現実だったりするわけです。
僕も本は大好きなのだけれど、一生かけても、小さな図書館1件分の本すら読み終えることができないというのを考えると、暗澹たる気分にもなりますし。
もちろん、僕が知っている立派な人たちには「読書家」がたくさんいます。
ただ、「過読家」となると、なんかちょっとイビツになっちゃっているというか「ただ字面を追っているだけなんじゃないか?」と感じることも多いんですよね。
人生をうまくコントロールしているように見える人は、本は読むけれど、読みすぎてはいない。
その境界がどこにあるのかは、また難しい問題ではありますが。


僕が知っている(といっても、著作のなかだけですが)「賢い人たち」の、こんな話があります。


『世の中の意見が<私>と違うとき読む本(香山リカ著・幻冬舎新書)より。

 科学的医療や西洋医学に対する拒絶反応は、精神医療の分野に限ったことではない。
 第3章でも紹介した作家・中島梓氏の闘病記『転移』でも。著者は抗がん剤は使用しているが、睡眠薬や鎮痛剤の使用はかたくなに拒んでいる。前回の手術の際、モルヒネを使ったときに「禁断症状」が出た、というのがその拒絶の理由のようだが、がん医療を専門とする中島梓ファンの知人は、「もう少し末期の疼痛をコントロールできたはずでは」と悔しそうに語っていた。
 鎮痛剤どころか、抗がん剤や手術さえ拒む人もいる。抗がん剤の”被害”を強調するような本も山のように出ている。とくに、医療関係者が書く抗がん剤否定の本は、人気が高いようだ。『末期がんを克服した医師の抗がん剤拒否のススメ』『間違いだらけの抗ガン剤治療ー極少量の抗ガン剤と免疫力で長生きできる』『「がん」になったら、私はこの代替医療を選択するー元がんセンター医師の告白』等々。
 2006年5月に他界した翻訳家の米原万里氏も、そのひとりであった。逝去した年に出版された『打ちのめされるようなすごい本』(文藝春秋 2006)によると、卵巣のう腫を内視鏡で摘出手術した後に、がんがあると告知され、手術を受ける。しかし、その1年半後に転移が判明。医療機関では、すみやかに開腹手術を行って、残っている卵巣、子宮などを全摘出し、抗がん剤治療を受けるように言われる。
 ところが、前回の手術のとき、現代医学に不信感を抱いた米原氏は、手術と放射線抗がん剤は「肉体へのダメージが大きい三大治療」と考えて、それを拒否する。そして、もともとの旺盛な読書欲を用いてがん治療に関する本を読みあさり、さまざまな民間療法、代替医療を試みる。本書には、日記形式でその様子がつづられているのだが、受けた代替療法は温熱療法、食餌療法、爪もみ療法、刺絡療法など、半端ではない数に上る。
 これまでの著作で知る限り、米原氏はとても理性的かつ自分で自分の責任をしっかり取るタイプの人なので、これらの療法もあくまで自分の意思で選択されたものと考えるべきだろう。しかし、それでもどうしても、「本当にこの治療が最善だったのだろうか、抗がん剤、せめて鎮痛剤などの使用により、もう少し人生を長く楽しむことができたのではないか」と思ってしまう。そして同時に、「賢明な米原氏にここまで拒否反応を起こさせた医学とは、いったい何だったのだろうか」ということも考えざるをえない。

香山さんがここで書かれているように、米原万里さんは、「とても理性的かつ自分で自分の責任を取るタイプ」の賢明な人だったと僕も思います。


でも、こんな「賢明な人」が、「がん治療」について勉強を重ねた結果選んだ治療法は、医者である僕の立場からすれば「最善」だったとは思えないのです。
少なくとも「爪もみ療法」が、がんに効くとは信じられません。
もちろん、ある種の好奇心から、いろんな治療法を試してみたということも考えられなくはありませんが……
彼女たちだって、「客観的にみて、もっとも根拠があって確実な治療は、医者がすすめている方法である」ことは、理解できたはず。
にもかかわらず、「日本代表クラスの賢者」たちは、別の選択をしたのです。


これを「どんな賢い人たちでも、自分の生命の問題となると、冷静な判断ができなくなる」と考えることもできるでしょう。
「賢いひとのなかで、がんに罹患した人全体」のなかでは、この2人は、「ごく少数の例外」なのかもしれません。
あるいは、「賢い人は、世の中には『特別な抜け道』みたいなのがあって、自分はそこを通れるはずだと信じてしまいがち」なのか。
少なくとも、「賢い人は、どんな状況下でも同じように冷静で客観的な判断ができる」というのは嘘なのだと思います。


「全く勉強していない人」も、あやしげな代替療法に騙されてしまうことがあります。
確率的には、「勉強している賢い人」よりも、騙されやすいはずです。
しかしながら、「全く勉強していなくても、専門家の言う通りにする」ことで、「統計的には正しいやり方」を結果的に選択している人も少なくありません。


結局のところ、「賢く生きる」ためには、「知識」よりも、「バランス感覚」のほうが重要なのかもしれないな、と思ってみたりもするんですよね。
でも、「読書」をはじめとする「勉強」は、それを磨くための近道であることはまちがいありません。

森博嗣先生に、こんな言葉があります。

ギャンブル

最も期待値の大きいギャンブルは、勉強である。
(その次は、仕事)

勉強が人間を幸せにするとは限らない。
ただし、「幸せになるために自分でできることは、勉強くらいしかない」のも、ひとつの現実ではあるのでしょう。


参考リンク(2):「わからない」人たちへ(琥珀色の戯言)

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