琥珀色の戯言

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まじめの罠 ☆☆


まじめの罠 (光文社新書)

まじめの罠 (光文社新書)

出版社/著者からの内容紹介
◎ 著者の言葉
この本は「まじめな人」に捧げる本です。
「まじめな人」とは、ある目標に向かって一所懸命に突き進んでしまう人。
「まじめ」は日本では誉め言葉ですが、本当に褒め言葉に値するものなのでしょうか。
そのことを疑ってほしい、というのが本書の考え方です。


◎ 内 容
「まじめの罠」とは、何かに対してまじめに努力した結果、
自分や社会を悪い方向に導いてしまうリスクを指す。
そして、いま、日本社会全体がこの罠にハマっていると考えると、
いろいろな謎を解くことができる。
あなたは、この罠にハマっていませんか?
「究極の優等生」として悩みながら働いてきた著者が
渾身の力を込めて綴る、「脱・まじめ」の上手な方法と、そのご利益。


この本の内容を要約すると、

 勝間和代さんが、「私を批判する人たちは、みんな仕事がうまくいっていない能無しで、太平洋戦争やホロコーストを引き起こす」と吠えている本

といったところでしょうか。

いやほんと、久々に勝間さんの本を読んだのですが、毎度のことながら、釣り針デカ過ぎ。

 私は、「勝間和代を嫌う人たち」のプロファイリングをだいぶしてきましたが、その過程でとても興味深い事実を見つけています。それは、私を嫌う人の典型的なパターンの一つが、「まじめに仕事をしているわりには成果が出ていない人」という事実です。より具体的には、高学歴であるにもかかわらず高収入を得ていないとか、頑張っているにもかかわらずつまらない仕事しか与えられていないような人たちです。それは男性でも女性でも同じです。
 彼らにしてみれば、「勝間和代はまじめに見えない。自分たちのような努力もしていないように目に映る。それでも成果を出しているというのは、何かズルをしているに違いない」と考えるわけです。あるいは、勝間和代という存在自体」が、自分たちの価値やアイデンティティを崩壊させるので許せないと考えるわけです。こういう人たちが一定数の割合で存在するので、まじめの価値を再考しようとしている本書も評判が悪くなる可能性は高いと思っています。

あたーりーードンドンドンドン!
というか、この新書の最大の問題点は、勝間さんが「まじめ」の定義をちゃんとせずに、「まじめな人」の悪口を延々と書き続けているところにあります。
この新書のなかでの「まじめ」は、「決められたことを型通りにやることしかしない、想像力に欠けた、無能な人たち」という意味で使われているようなのですが、そういう人たちって、一般的にどう呼ばれているか、ご存知でしょうか?


そう、「バカ」です。



要するに、この本のなかで、勝間さんは、自分を批判する人たちを、一般的な「まじめ」の用法とはかけ離れた定義(=「バカ」)の「まじめ」と決めつけて(しかも、ズルいことに、その定義をこの本のなかでは一度も明示せず)いるのです。
そして、バカをバカにして、「私の物の見方は斬新でしょ?」と息巻いている。
僕が勝間さんを嫌いなのは、「まじめじゃない」からではありません。
厚顔無恥で、ウソばかりついているからです。

 私は東電に対して事故の責任を問う公開質問状を提出しましたが、これは本来、もっと多くの国民やマスコミも行うべきものでした。もちろん、これだけの事故ということもあり、「お上」に対する批判的な論調も一部では見受けられますが、まだまだ、「お上と国民の病的な相互依存関係」は続いているといっても過言ではありません。

質問状を出したことを責めるつもりはありません。
ただ、中部電力原発広報CMに登場していたにもかかわらず、事故が起こったとたんに「公開質問状」を出して、鼻高々とそれを「自慢」するなんて……
僕には、「この人には羞恥心というのがあるのだろうか?」と疑問ではあるんですよ。
「日本人は権威に弱い」なんて批判しながら、勝間さん自身は、すぐに「マッキンゼーでは……」と口にするのは、読者を試しているのでしょうか?

まじめな人たちはなぜまじめなのか、3つのスキル不足を指摘したいと思います。


(1)ランク主義に染まり、価値観、視野に「多様な視点」がない
(2)「決まり」を疑うような、問題設定能力がない
(3)自分自身を客観視できるようなメタ認知能力がない


 この3つは、統合すると「大局観の欠如」ということになります。部分最適はとても得意だけれども、そもそも所与の条件が合っているのか、間違っているのか、その疑いを持たないということです。

この(3)について、勝間さんは、こう述べておられます。

 メタ認知能力に欠ける人は、すべての状況、文脈、話を「私(I)」という視点からしか語ることができません。歴史の中や社会の中に自分がいるのではなく、自分という存在が天動説のように中心にあり、そのまわりを歴史や社会が取り巻いているのです。したがって、そういう人たちは世の中を観察したり、情報を理解したりするときに、すべて「自分」という色眼鏡を通してまわりを眺めており、かつ、自分自身がその色眼鏡を持っていることに気づいていないのです。

このあと、「メタ認知能力に欠ける人」の実例として、菅直人前首相の名前が挙げられているのですが……
勝間さん、菅さんより、もっとあなたの身近なところに、その「実例」がいると思いませんか?


そして、「まじめ教」から抜け出したときに得られるご利益として、こんなふうに書かれています。

(1)労働時間が短くなる
(2)お金が儲かるようになる
(3)人を非難しなくなる
(4)人生に満足できるようになる


などをはじめ、たくさんあります。

僕はこれを読んで、笑ってしまいました。
だって、あまりにそっくりなんだもの、一昔前にネットに氾濫していた「ラクして儲かるネットビジネス(ネズミ講っぽいやつ)の成功体験談」に。
南の島で遊んで暮らして、でっかい車に乗って……
僕はあれを見るたびに、「もしそれが実現したとしても、そんな生活、1か月くらいで飽きるんじゃない?」と思っていました。
何十年もずっと南の島でバカンスを続け、年取ったら死ぬ。
そんな生活に憧れるのは、僕には不可能です。
勝間さんには、「それが『まじめの罠』なのだ」と言われるのかもしれませんが、これはもう、今さら変えようもない。


この本のオビに「3か月で100点取る人、2日で80点取る人、どちらを評価しますか?」と書いてあります。
「効率」を考えれば、後者を評価すべきだと勝間さんは言います。
ネットで「ライフハック」ばっかり追いかけている人たちも、そうなんじゃないかな。


でもね、僕は「80点という『合格点』から、100点という『最高点』に到達するのは、すごく難しいことだ」と考えているのです。
この「20点」を埋めるために、3か月を費やす必要がある場合も、少なくないはず。
もちろん、本当に100点が必要なことかどうかは、あらかじめ検討しておく必要があるのでしょうけど。


ここまで書いてきて、僕はあることに気がつきました。
もしかしたら、この本って、「こんなのを一生懸命読んでしまう人こそ、『まじめの罠』にハマってしまっているのだ」という、勝間さんからの痛烈なメッセージなのかもしれないなって。


勝間さん大好き、勝間さんの自慢話が読みたくてしょうがない!という人はどうぞ読んでください。
「売れてそうだし、今度こそ、もしかしたら面白いのかも……」と期待してしまっている人は、僕と同じ過ちをおかさないでくださいね。

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