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琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

僕は「フィクションに騙されて、現実逃避したいバカ」です。

参考リンク(1):ゲーセンで出会った不思議な子の話(哲学ニュースnwk)
↑の話について。

参考リンク(2):実話として流通する嘘に大喜びする愚民(島国大和のド畜生)


実は、僕もこの「ゲーセンで出会った不思議な子の話」を、twitterで、「泣いた。」というコメント付きで紹介しました。
これが「実話」だったかどうかについては、正直、あんまり考えていなかったし、フィクションならフィクションでも構わなかったし。
たしかに「付き合っていた人との会話の内容とか、そのときに流れていた音楽をここまで詳細に覚えているはずがない」のかもしれないし、「投稿サイトに載っていたら、誰も見向きもしないレベルの陳腐な作品」だと言う人もいるでしょう。「ケータイ小説と似たようなもの」とか。

僕は40年くらい生きてきて、「ウソのような実話」とか「実話のようなウソ」をたくさん見聞きしてきましたし、「いくらかの記憶の再構成を加えた事実」である可能性だって完全に否定はできないとも思うのですけど。

文字打つのが遅いとか、スマホだからってレス遅いとか、ちょっと用事があるのでPC離れるねとか、そんなもん「スレ速度コントロールしてるだけじゃん」ものによっては自演も混じってるじゃん。

っていうのも、見かたによっては、「ネットの特性を利用して、リアリティを添加する」という「工夫」でもあるんですよね。
もしかしたら、こういう「演出」が「電子出版の新たな可能性」なのかもしれません。
ケータイ小説と似たようなもの」かどうかは、「感覚の個人差」なのでしょうが、難病や死が濫発されるのは、「ケータイ小説」の専売特許ではないわけで、「小説のあらすじなんて、100字でまとめてしまえば、芥川賞受賞作もケータイ小説もみんな似たり寄ったり」です。

皆様、マジでバカですカ!?


 バカが騙されるから、騙すアホが調子に乗るワケですよ。
 嘘を嘘と解って楽しむってレベルほど、嘘高度じゃねーし面白くないじゃない。
 冒頭に「創作ですが」て一言つけてあっても読むの?
 どれもこれもヘタクソ過ぎてもう。2chで実話体裁じゃなくて、投稿サイトに載ってたら誰も読まないレベル。

正直に言います。
僕は「フィクションに騙されて、現実逃避したいバカ」です。
物語という「ウソの世界」が大好きです。
子どもの頃、「フィクションの世界という逃げ場」がなければ、いままで生きてこられたかどうか。
この「ゲーセンで出会った不思議な子の話」も、自分にとっても大事な場所だったゲーセンで、こんな「物語」があったらいいなあ、と、ちょっとうらやましく思いながら読みました。


僕は『電車男フィーバー』もリアルタイムで体験していますから、「これは、ネット発で作品を売りたい人が書いた創作かもしれないな」という疑念はありました。
でも、それを声高に主張するのは「不粋」だと思いました。
そして、「実在の人物について、誰かが一方的な立場で書いた事実」よりも、「まったくのフィクション」のほうが、ある種の「真実」への近道のような気もするのです。


 この話が、「フィクション」であったとしたら、「全く価値が無い」のだろうか?
 僕たちは「感動的な話」「いい話」だと思えば思うほど、それが「事実」であることを望みがちですし、ネット上では、その傾向は顕著のようです。
「感動的なフィクション」というのは、どんどん肩身が狭くなっていっている感じで、誰かが「いい話」を書くと、誰かが「でも、これ実話?」って言い始めるんですよね。
 赤の他人である読者にとっては、それが実話か作り話かによって、何かの「現実的な影響」を受けるわけではないのに。


 僕は最近、「よくできたフィクションを消化し、必要な栄養分だけを自分に取り込む力」が、どんどん失われてきているのではないか、と感じているのです。どんな「実話」だって、そこに「語り手」が介在している限りは、なんらかのフィルターがかかっているはずなのに。
 「ノンフィクションだから感動してもOK」「フィクションだから騙されるな!」という「二者択一」こそが、逆に「自己啓発セミナー的な落とし穴」なのです。
 それが「物語」である限り、「ノンフィクション」も「フィクション」も受け手にとっては、「ひとつの情報」にしか過ぎません。
そもそも、「事実にまったく影響を受けていないフィクション」も、「何の虚飾も嘘もないノンフィクション」も存在しないのです。
大事なのは、「それが事実かどうか」よりも、「その話から、何を感じ、何を生かしていくか」なのです(あるいは、「楽しければ事実でも嘘でもどっちでもいいや、というスタンスもあり)。
 「実話じゃないから全否定する」というのは、「実話だから鵜呑みにする」というのと、結局のところは似たようなものだと思われます。


そもそも、「フィクション」と「ノンフィクション」に、明らかな「境界」はあるのでしょうか?
小説家の描く「フィクション」には、ある種の経験が反映されていることが多いですし、小説内で不倫の話が出てくれば、多くの人は、その作者の「実体験」を想像するはずです。「ノンフィクション」であっても、それを語る人の立場や視点によって、内容は大きく変わってきますしね。歴史年表だって、「どの歴史的事件を選んで載せるか」という作者の意志が反映されているものなのです。


 現代は、「実話であるということが過大評価されすぎている時代」なのかもしれません。


 ちなみに、僕が『電車男』を読んでいて感動したのは、電車男エルメスのラブストーリーではありませんでした。
 電車男を「支援」するために、パソコンの前からさまざまなアドバイスを贈り、励まし続けた、善意の「名無しさん」の存在に、僕は心を打たれたのです。
 『2ちゃんねる』には、他人への誹謗中傷を続け、妬み嫉みなどの負の感情を隠そうともしない「名無しさん」がいます。
 でも、電車男の恋が成就したときに、膨大な数の喜びのアスキーアートを書き連ねた「名無しさん」もいたのです。
 彼らにとっては、他人の恋愛がどうなろうが、現実には何のプラスにもならないことのはずなのに。
 インターネットの向こうには、まだまだこんなに「行き場のない、何の見返りも求めない善意」が存在していたのか……
  『電車男エルメス』が想像上の人物であったとしても、ネット上の善意の「名無しさん」は、たしかに存在していたのです。
 もし『電車男』がなければ、彼らがあんなにわかりやすく「可視化」されることはなかったでしょう。


 今回の「ゲーセンで出会った不思議な子の話」も、「この物語に感動して、自分も誰かをこんなふうに大事にしたいと思った人」が、ディスプレイのあちら側に、たくさんいたのです。
 彼らは(僕もだけど)「愚か」なのかもしれません。
 でもさ、この話って、「事実かどうか」が、そんなに大事なの?

 
 念のため書いておきますが、島国大和さんは「フィクションであること」を問題視されているわけではなく、「フィクションを事実のように書いているのだけれど、そんなややズルい手段を用いている上に、面白くない」ことに疑念を呈しているわけです。
 
 いやしかし、「これウソですからね、フィクションですからね!」ってキッチリ前置きされたら、どんなフィクションでもつまんなくなると思うんですよね。
 『食人族』とか『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のような「明らかなウソ話」でさえ、冒頭に「これ、ウソですからね!」って出てきたら、99.999%ウソだとわかっていても、なんか白けるじゃないですか。
 「誰も大きくは傷つかない話」であれば(誰もまったく傷つかない話なんて、フィクションにもノンフィクションにもありません)、そこに書いてある話が面白かったり、感動できるかどうかだけが「判断基準」で良いのではないでしょうか。