琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「アクマを ころして へいきなの?」


参考リンク(1):僕は「フィクションに騙されて、現実逃避したいバカ」です。 - 琥珀色の戯言
↑の話の続きというか、またちょっと考えたこととか。


参考リンク(2):「ゲーセンで出会った不思議な子の話」って実話だとしたら美談なの? – Togetter


以前、長渕剛さんのお母さんが亡くなられたときに、お葬式で長渕さんが「かあちゃんが死んでしまった、という内容の歌」を歌い、マスコミに色紙を公開していたのを観て、僕はなんだかすごく「うんざり」したのです。
ちなみに、長渕さんはお母さんの死を曲にもされています。

『コオロギの唄』の歌詞


自分の身内の死を「ネタ」にするなんて。
しかも葬儀の日に、曲までつくって公開するなんて。
そんな創作活動ができるほど、精神的に落ち着いていられたのか……


でもまあ、考えようによっては、「クリエイター」って、そういう残酷な人種なのかもしれません。
あの震災に対して、ただ圧倒され、悲しみで言葉を失ってしまうのではなく、「震災は天罰だ」とかいう「ストーリー」を他者に言いたくなってしまうようなメンタリティを持った人々もいるのです。


ただ、僕自身は、あの長渕さんの「自意識モンスター」っぷりを知って以来、なんかもう「自分の母親の死もネタにする人」としか思えていなかったのですが、去年の紅白歌合戦で、被災地を訪問し、自ら先頭に立って子供たちを励まそうとしている長渕さんの映像を見て、見直したというか、考え込まずにはいられませんでした。

「あれが『善意』なのか『過剰な思い入れ』なのか『売名行為』なのかは僕にはわからないけれど、それは、間違いなくあそこで苦しんでいる人たちに届いているのだろうな」って。


で、前置きが長くなってしまったのですが、「ゲーセンで出会った不思議な子の話」って、もし実話だとして、、遺族が読んだら、どう思うのだろうな?という気持ちにはなりますね。
これを書いている男性にとっては、「美しい思い出」だったのだとしても、それは、大勢の前で「公開」しても良いものなのか?

参考リンク(2)のwhite_cakeさんのtweetに、こういうのがありました。

わからん。ゲーセン不思議っ子話って、実話だとして美談? 元気を貰える話? 私は自分が遺族側だとしたら、あの話は嫌な気分にさせられると思うんだよ。ああいう風に看取られたくない、とどこかで思うんだが、でも死んだ彼女はああいうふうに看取って欲しかったことなんだろうしな…

いやほんと、僕も「わからん」です。
(もし仮に実話だとして)そんなふうにネタにされることを彼女自身が望んでいるかどうかも、わからない。


でも、悲しみを語ることによって、自分が癒されるという効果もあるようですし、「幼くして亡くなった自分の子供のこと」を、記録として残しておきたいと、手記を書いたり、ドキュメンタリーで積極的に採りあげられることを望む親も少なからずいるのです。


僕個人としては、「身内の死や不幸をネタにするのは嫌」なんですけど、それぞれの考え方とか事情とかをあれこれ考えると、一概に否定するわけにもいかないかな、とは思います。
こういうのを「ネタ」にしてしまう人の「自分でも美談だと思っているの感じ」が伝わってくるのは、たしかにあんまり良い感じはしないのだけど、それは、そんな「語るべき美談」を持たずに生きている僕の「妬み」なのかもしれません。
もちろん、「若くして相思相愛の恋人が死ぬ体験」なんて、しないにこしたことはないのだとしても。


しかし、この「フィクション論争」についていろいろ考えているうちに、僕はちょっと疑問になってきたのです。
この「ゲーセンで出会った不思議な子」が、「フィクションの登場人物」であれば、それは「美談」ではなくなるのだろうか?
「嘘」の中でなら、登場人物は、どんなひどい目に遭っても「まあ創作だから」と、許されるのだろうか?
実在のモデルが云々とか、表現規制とかの話になってしまうとまた話が広がりすぎてしまうのですが。


世界の中心で、愛をさけぶ』と『余命1か月の花嫁』と『ゲーセンで出会った不思議な女の子』のあいだに、そんなに大きな「違い」はあるのでしょうか?
僕にとっては、「高校時代に長澤まさみと一緒に無人島に行く」とか「難病の彼女との結婚式」よりも「ゲームセンター」のほうが身近で、好感が持てる舞台設定だっただけの違いしかないような気がするんですよ。
テキストになって目の前にあらわれれば、それは、ひとつの「物語」でしかありません。
僕にとっては、それが「事実かどうか」は、そんなに大きな問題ではないんです。


「ゲーセンで出会った不思議な女の子の話」は、「事実だったら作者は自己顕示欲の強い酷い男」だし、「フィクションだったら嘘つき」なのかもしれません。
あるいは、「事実だったら感動の実話」で、「フィクションだったら、人の心を動かすことができる文章を書ける人」なのかもしれません。
それは、どちらかが正しいというわけではなくて、「物語」には、そういう多面性があるということです。


堀井雄二さんは、『ドラゴンクエスト』をつくっていて、モンスターを倒した際に「殺す」という言葉を使うのを避け、「やっつけた」「たおした」にしたそうです。
モンスターなんて「フィクション」であることは、子供たちでもわかっているはずなのに。


多くの人が「事実か虚構か」にこだわっているけれども、それってそんなに大きな問題じゃなくて、「それが受け手にどんな影響を与える物語なのか」こそが重要だと思うんですよ。


このエントリのタイトル、「アクマを ころして へいきなの?」は『女神転生』という有名なゲームのなかで、敵である「悪魔」が発してくる言葉のひとつです。

僕たちが、現実世界で「アクマ」を殺す機会は、まず無いはずです。
でも、この言葉は、当時の僕には、なんだかすごく「心に引っかかるもの」でした。


「『敵』だから、『悪いもの』だからといって、それを殺してしまうことに、お前は罪の意識を持たないのか?」

 そこで、いろんな自分にとっての「敵」だとか「悪魔的なもの」について、僕は想像せずにはいられません。
 もし、自分が彼らの生命を自由にできる機会が訪れたら……?


村上春樹さんが、小説(物語)の役目について、こんなことを書かれています。

 我々はみんなこうして日々を生きながら、自分がもっともよく理解され、自分がものごとをもっともよく理解できる場所を探し続けているのではないだろうか、という気がすることがよくあります。どこかにきっとそういう場所があるはずだと思って。でもそういう場所って、ほとんどの人にとって、実際に探し当てることはむずかしい、というか不可能なのかもしれません。


 だからこそ僕らは、自分の心の中に、あるいは想像力や観念の中に、そのような「特別な場所」を見いだしたり、創りあげたりすることになります。小説の役目のひとつは、読者にそのような場所を示し、あるいは提供することにあります。それは「物語」というかたちをとって、古代からずっと続けられてきた作業であり、僕も小説家の端くれとして、その伝統を引き継いでいるだけのことです。あなたがもしそのような「僕の場所」を気に入ってくれたとしたら、僕はとても嬉しいです。


 しかしそのような作業は、あなたも指摘されているように、ある場所にはけっこう危険な可能性を含んでいます。その「特別な場所」の入り口を熱心に求めるあまり、間違った人々によって、間違った場所に導かれてしまうおそれがあるからです。たとえば、オウム真理教に入信して、命じられるままに、犯罪行為を犯してしまった人々のように。どうすればそのような危険を避けることができるか?僕に言えるのは、良質な物語をたくさん読んで下さい、ということです。良質な物語は、間違った物語を見分ける能力を育てます。

また、3年前の「エルサレム賞」でのスピーチでは、こんなことを仰っておられます。

 よく練られた嘘(読者に、そこにある真実だと思わせるような物語)を創り出すことにによって、作家は「真実(実際にそこにあるもの)」にいままでとは違う位置づけをして、新たな角度から光を当てることことができるから。


多くの場合、「いま、実際にそこにあるもの」をそのままの形で正しく認識し、具体的に描くことは非常に困難なのです。

 大事なのは、その物語が「事実かフィクションか」を見抜くことではないのです。
 「事実」のなかにも「嘘」はあるし、「フィクション」のなかにも「真実」は含まれています。
 事実であろうが、フィクションであろうが、ある物語のなかの「良質な部分」と「間違った部分」を判断できるフィルターを、自分のなかにつくっていくこと。
 それは、「本を読むこと」によって。もっとも「生きていくために役に立つ効果」だと僕は考えています。

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