琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

少しだけ、小島慶子さんの話をします。

小島慶子、「キラキラ」降板を激白 「自営業男性を意識して話して」と言われた(J-CASTニュース)

 高い聴取率を誇り、小島さんも「ラジオの女王」とまで呼ばれていたが、2012年1月26日の放送で、番組を降板することを自身の口から明らかにした。2011年12月に局に降板の申し入れをし、3月いっぱいで降りることになったという。


 理由としては、2011年は3月の震災もあり、放送とは何か、ということを考えることが多かった。そして、「どこかにいるかも知れない『あなた』に届けばいいな、誰かが喜んでくれたら嬉しいな」という気持ちで、自分が話したいことを話すしかない、という結論に至った。


 同時にラジオが再び注目されている、と世間で言われ始め、局側からも「せっかくラジオに注目が集まっているので、番組としては是非聴いて欲しいお客さんがいる。まだラジオを聴いていない、40代、50代の男性の自営業の人を意識したしゃべりをしてください」と言われたのだという。


 小島さんは、「ラジオはリスナーとの会話。今聴いている人に話しかけながら、その肩越しに聴いていない人を呼び込むしゃべりをしろ、と言われたら、それは絶対できない」。局側には、もう自分の出番ではないということを繰り返し伝えてきた。「じゃあ降りてください」とは言われなかったが、年末に自分から降板を申し入れたと説明している。

僕が住んでいる地域では「小島慶子 キラ☆キラ」を聴けないのですが、『情熱大陸』に出演されていたのを観て、著書を読み、小島さんの考えに強く惹かれていました。
僕は「オールナイトニッポン」全盛期の頃(中島みゆきさんとかビートたけしさんがパーソナリティだった頃)から、ずっとラジオが大好きなので、ラジオの世界を盛り上げてくれている小島さんを心強く感じてもいたのです。

「育児重視のための降板」と伝えられていたのに、今回、ご本人の口から、「スタッフとの軋轢」が直接語られたのには驚きました。
いや、降板するにせよ、「育児のため」って世間的には言っておいたほうが、次の仕事にもつながりそうなものですよね。
小島さんは、本当に「曲がらない人」そして、「曲げられない人」なのだなあ。

小島さんには、『ラジオの魂』(河出書房新社)という著書があります。
この本、「まあ、芸能人の本だしねえ」と思いつつ購入して読みはじめたのですが、あまりに率直な言葉の数々に、コーヒーショップで一気読みしてしまったのを思い出します。
以下、印象に残ったところを、2カ所御紹介します。

小島慶子さんが、1998年にはじまったラジオ番組『アクセス』のナビゲーターとして考えていたこと)

 番組ではいろいろなテーマをリスナーに投げかけました。「テレビのニュース番組は信頼できますか?」「過去に書かれた名作に登場する差別表現は撤廃したほうがいいと思いますか?」「伴侶を亡くしたときの覚悟はできていますか?」――。公的な問題から私的な問題まで、多種多様な投げかけをしましたが、いつも思っていたのは、設問の作り方ってとても大事だということでした。
 例えば、自衛隊をテーマにしたとしたら「あなたはどう思いますか?」と訊くのと「国はどうするべきだと思いますか?」と訊くのとでは、返ってくる答えが全然違うんです。「国は……?」のほうが断然答えやすい。それは、遠慮なく批評や批判ができるからです。「国は自衛隊を持つべきだ」「いやそうでない、なぜなら……」と持論を展開できて、格好いい意見もいっぱい来ます。自分でない誰かが主語になると、人は思い浮かんだことをすらすらと言うことができるんですね。
 しかし、「あなたは……?」という風に投げかけると、バシッと明快に答える人は少なくなります。一挙に曖昧な答えが多くなる。「国が自衛隊ではなく軍隊を持ったら、あなたは軍に入りますか?」というような「あなたは」を問う設問には、歯切れの悪い答えがたくさん集まってくる。
 私はこの「歯切れの悪さ」がとても好きでした。「好き」と言うと語弊があるかもしれませんが、人が自分に向き合っている嘘のない姿を見ることができるようで、「いいなあ、最高だなあ」と思うんですね。人間の本音は、歯切れの悪いこと、白か黒かで答えられないことの中にしかない。堂々と、理路整然と、スパッと言い切ることができる考えや意見というのは、だいたいにおいて他人からの借り物や受け売りだったり、生活の実感とは遠いところにあるんですね。どんな問題でも「『誰か』ではなく、『自分』だったら?」と己に向かって問いかけてみると、必ず自分の中にある矛盾とか、奥底に沈んでいる嫌な部分にぶつかってしまう。直視したくないもの、しかも自分のそれを見るのは決して気持ちのいいことではありませんが、本音というのは「心地良くない作業」をしないと絶対に自分の中から発掘されないものなんです。
 リスナーに、そんな「心の作業」をさせるようなテーマを設定したい。だから設問の作り方、投げかけ方を工夫しなければと思いました。意見を寄せてくれる人だけでなく、聴くだけの人にもそのほうが心の真ん中に届くし、聴き応えがあるものになってくる。議論もリアルに、活発になる。番組が始まった当初からそう思っていましたから、ディレクターはときに喧嘩をしながら、テーマを作っていきました。話し合いをして、設問の言い回しを変えたことも何度もあります。

「皆さんはどう思われますか?」


「難しい問題ですね」


「これからも考えていかなければなりませんね」


 意味があるようで、全く意味のない言葉。リスナーとトークパーソナリティの議論を整理しつつ番組を進めていく上で、私はその類の言葉は使いませんでした。典型的な耳障りのいい文句は必要ない。なぜなら、普段の会話にそんなフレーズは登場しないからです。言いませんよね? 友だちと話をしていて「それはずっと私たちが考えていかなきゃいけない問題だよね」なんて(笑)。


 でも、それらの「どうでもいい」言葉を持ち出さないと、混沌としたまま番組が終わることもある。「で、結局どういう結論だったの?」とか、「何も解決してないじゃん」「何のための話だったの?」という印象を与えてしまうこともあります。多分そういうことは『アクセス』ではしょっちゅうあったと思います。


 でも、「どうでもいい」言葉でまとめるより、そのほうがずっと「いい」んです。何かモヤモヤした感じとか、後味の悪いものであっても、何かしらの痕跡を人の心に残すのが番組。「聴いたという痕跡」を、ほんの少しでも心に残さなければ、放送の意味なんてありません。結論が導き出されない議論を聴いて、わけの分からない不快感や、消化不良なものを感じた人が、「なんだよこんな気持ち悪さを置き土産にしやがって、これはきっと喋ってた奴らの押しつけに違いない」と思ってこちらを攻撃してきたとしても、それは仕方がない。誰からも嫌われたくないんだったら、害のない、意味のない言葉を言えばいいんでしょうが、放送は「私が誰からも嫌われないため」にやっているんじゃないのですから。触りのいい、ただ感じのいい言葉を並べて、丸く優しくなめらかな印象を与えてはい終わり、というのは、安全なことなのかもしれませんが、少なくとも放送上においては、無難であるという意味での安全は最優先されるものじゃない。安全も、きれいも、いらないんです。

昔のラジオって、けっこう「無法地帯」のメディアだったのです(いやまあ、それなりに放送禁止用語とかはありましたけど)。
僕が学生時代(20〜30年前くらい)の深夜放送なんて、今だったら、絶対にネットで「炎上」してしまうようなネタがたくさん流れていました。
それが「いい時代だったか」というのはまた難しい話だったのですが、少なくとも、「無難な内容で、炎上しないように」と萎縮してしまっている現在の状況は、なんだか寂しいものではありますね。
「どうせ深夜放送なんて、聞いているのは過激なネタが好きな若いのくらいなんだから」という「開き直り」もあったし、パーソナリティが間違ったことを言ったら、リスナーは本気で「返信」をしていた時代でした。
しかしながら、いまはもう、そんな時代じゃない。
深夜放送だろうが、地方のローカル局だろうが、失言はネット経由でさらされて、発言者は集中砲火を浴びせられます。
いまや、ラジオというのは、けっしてメジャーなメディアではありません。
それでも、最優先されるのは「問題が起こらないこと」になってしまっています。


僕は、これらの小島さんの言葉の「率直さ」に驚きました。
そして、ネットにもあてはまる話なのではないか、と思いました。


「あなたはどう思いますか?」と「国はどうするべきだと思いますか?」
ネット上のブログは「個人」が発信しているはずなのに、多くの人は後者について語りたがります。
たとえば、「消費税増税」では、「国の財政難や震災からの復興のことを考えれば、消費税アップやむなし」という「国の立場からの意見」と、「自分の収入がこれ以上減ったら、もっと生活が苦しくなる…」という「自分自身の気持ち」の両方が、みんなあるはずです。


人間というのは、ネットのような「大勢に向かって発言できる舞台」に立ったとき、どうしても「格好いい意見」を言おうとしてしまいがちです。
「日本は○○すべきだ」というのは、難しいようでいて、けっこう簡単なんですよね。
自分に関係のないところであれば、「どちらかを選ばなければならないのだとすれば、1万人が犠牲になるよりも、100人が苦しむほうが良い」と、けっこう「客観的」に言ってしまいがちです。
反論されても「1万人より100人のほうが少ないだろ。客観的な事実だ」って言えばいい。
でも、そこで、「苦しむ100人」のなかに、「自分」や「自分の大切な人」が含まれていたとしたらどうでしょうか?
それでも、何も悩まずに「正論」を主張できるのか?
目の前にいる100人に「1万人のために死んでください」と言えるのか?


現実って、そんな「苦しい選択」ばっかりなんですよね。
そんなことは、想像するだけで憂鬱になってきます。

だからといって、上っ面だけの「きれいごと」ばかりを交わしあっていても、何も解決しない。


「安全も、きれいも、いらないんです」
そう言い切れる小島さんは、本当に強い人です。
ただ、僕自身としては、こういうときに「そんなの自分はイヤ!辞める!」と言うのと、「相手の言うことも聞きつつ、少しずつでも自分のやりたいことができる場所を確保しながら進んでいく」のと、どちらが正しいのか、結論が出せないのです。
いや、僕はおそらく後者を選ぶ人間なんだろうな、たぶん。


こういう「覚悟」で、ラジオをやってきた人がいる。
とりあえず、それを知ってもらいたくて、このエントリを書きました。


ラジオの魂

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