琥珀色の戯言

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「僕のお父さんは東電の社員です」 ☆☆☆☆


「僕のお父さんは東電の社員です」

「僕のお父さんは東電の社員です」

内容紹介
2011年3月の震災、そして原発事故。放射能漏れが続く中、 一人の小学生の問い掛けが毎日小学生新聞に掲載され、 大人たちが忘れていた視点を呼び起こす。 「僕のお父さんは東電の社員です」 悪いのは東電だけ?  それとも大人たちみんな? 子どもはどんな責任を持つのか?  真面目に働くことは誰かに不幸を招いてしまうことなのか?  東電の社員一人ひとりは真面目な人物が多い。しかし、 それがなぜこんな無責任な悲劇に結びついてしまうのか?  勤勉に働きさえすれば国が豊かになり、個人が幸せに なるという戦後日本がひたすら信じてきた想いにどんな 盲点が含まれていたのか? 全国の小中学生が参加した白熱議論がこの国に生きる 可能性と覚悟を問い、森達也氏の渾身の書き下ろし長文 が、その問いに向き合う。


参考リンク:「僕のお父さんは東電の社員です。」.... 毎日小学生新聞版

↑の「東電社員を父親に持つ『ゆうだい君』(仮名)からの手紙」が、この本が編まれるきっかけになりました。
小学生から大人まで、この手紙に対する多くの反響が、毎日新聞に寄せられたそうです。
(ちなみに、紹介されるときには「仮名」になっていますが、「ゆうだい君」の最初の手紙は、実名で送られてきました)

 原子力発電所を造ったのは誰でしょうか。もちろん、東京電力です。では、原子力発電所を造るきっかけをつくったのは誰でしょう。それは、日本人、いや、世界中の人々です。その中には、僕も、あなたも、(『毎日小学生新聞』で東電批判をしていた)北村龍行さんも入っています。
 なぜ、そう言えるかというと、こう考えたからです。
 発電所を増やさなければならないのは、日本人が、夜遅くまでスーパーを開けたり、ゲームをしたり、無駄に電気を使ったからです。
 さらに、発電所の中でも、原子力発電所を造らなければならなかったのは、地球温暖化を防ぐためです。火力では二酸化炭素がでます。水力では、ダムを造らなければならず、村が沈んだりします。その点、原子力なら燃料も安定して手に入るし、二酸化炭素もでません。そこで、原子力発電所を造ったわけですが、その地球温暖化を進めたのは世界中の人々です。
 そう考えていくと、原子力発電所を造ったのは、東電も含み、みんなであると言え、また、あの記事が無責任であるとも言えます。さらに、あの記事だけでなく、みんなも無責任であるのです。

(『ゆうだい君からの手紙』の一部抜粋ですが、全文を読んでいただくことをおすすめします)


 僕は、この手紙を読んで、「ゆうだい君」がこうして自分の気持ちを言葉にしていることに感動しましたし、「正論」であると思います。
 「原子力発電所が本当地球温暖化を防ぐのか?」という点には、ゆうだい君の事実誤認があるとしても。

 
 それで、この手紙を読んだ子供たちは、どんな反応を示しているのかというと、「やっぱり東電が悪い」「みんなも悪い」「情報を出さない政府が悪い」など、さまざまです。


 ゆうだい君と同じ世代、小学生たちからの反応。

 私は、ゆうだい君の意見に対して悪いのですが「みんなが悪い」のではなく「東京電力が悪い」と思います。なぜ東京電力が悪いのかというと、今原子力発電をおさめられなくて市や町、村に放射能をたくさん飛ばしてるのに情報を速く伝えないでいて、とにかく情報が遅い、そこが悪い所だと思います。

 ゆうだいくんへ
 ぼくも一ばんは東電のせいだとおもうけど、やっぱりみんなのせいだよね。

 今ひさいしゃの人の気もちもかんがえてほしい。
 でも学校などで「あのじこおこしたげんしりょくはつでんしょではたらいてたお父さんの子どもやで!」とか言っている人がいたらゆるせない。

 次は、自分は、どうすればいいかです。「勉強する」。僕はこれしかないと思います。勉強しなければなにもできない。それに、勉強すれば色々といい事があります。ほうしゃのうは、ロケットにのっけて、とばして、宇ちゅうでばくはつさせる。そして、ほうしゃのうとおさらばして自由になる。
 そのために勉強し、ロケット造って、とばして、ばくはする、それでOKそうということで、自由がてにはいると思う。

 
 もちろん、ここに収録されたものはごく一部なのだと思うのですが、僕はあまり、「子供らしくて、ほほえましいなあ」とは思えませんでした。
 ああ、やっぱり子供っていうのは、大人の言葉を受け売りしてしまいがちなのだな、と。
 こういうのに「投書」するのは、「おとなびた」(あるいは、おとなぶった)子供が多いはず。
 もともと、いまの子どもたちには、原発に対する知識もなければ、それを造ってしまったことへの責任もありませんし。


 この本には、中学生、高校生から大学生、おとなからの手紙も収録されているのですが、率直に言うと、どの世代も、そんなに言っていることは変わらないのです。
 「電気が必要になったのはみんなの生活のためだし、原発を造ることに強く反対しなかったじゃないか」
 「政府も東電も、『絶対に安全』って言って、原発をつくったはずだ。にもかかわらず、事故が起こってみたら『想定外』だなんて、無責任すぎる」
 「いや、本当にみんな『安全神話』なんて信じていたのか?『絶対に安全』なんて信じてもいなかったくせに、東京は『電気が必要だし、何か起こっても原発は遠くにあるから』、福島は『お金も仕事もない田舎に、原発はたくさんのお金を落としてくれるから』その危険性を見て見ぬふりをしていただけじゃないのか。それで、いざとなったら、『東電が悪い』『政府が悪い』でいいのか?」


 この本を読みながら、僕はこの「原発事故の責任問題」って、「太平洋戦争での戦争責任」みたいだな、と考えていました。
 「東電が悪い」「政府が悪い」「国民は騙されていた」というのは、「軍部の暴走に国民が巻き込まれて、戦争に突き進んでいった」という歴史観と同じなのではないか、と。
 とはいえ、あのときの国民、そして、今回の国民に戦争や原発建設を止めるだけの力があったのか?と問われると、「あった」と言い切る自信もないのです。


 この本の後半は、森達也さんが書かれた「僕たちのあやまちを知った あなたたちへのお願い」という文章です。
 これは本当に素晴らしい内容なので、立ち読みでもいいから(って言うと怒られそうですが)、ぜひ一度読んでみていただきたい。
 森さんは、まず、読者にこう問いかけます。

 電気とは何だろう?

 僕はこの質問に、うまく答えることができませんでした。
 「電気とは何であるかも知らないのに、それをつくる施設である原子力発電の必要性について語っている」
 そういう姿勢こそが、「まあ、なんとななるだろう。みんなそう言っているし」という「集団幻想」のもとなのかもしれません。


 森さんは、原発の危険性について、そして、「原発はコストが安い」というイメージのウソにも切り込んでいます。

 日本には現在、北海道電力九州電力など、分けられた事業地域ごとに10の電力会社がある。そのうちで最も大きい東京電力は、それぞれの電力会社に区分けされた自分の事業地域内に、自分たちが運営する原発をまったく置いていない、唯一の電力会社だ。


(中略)


 自分の家にある町内に建てることが不安ならば、そんなものを隣町に建てないでくれ、東京電力原発予定地に暮らす人たちは、当然ながらそう言って反対した。あなたたちが使う電力をつくる発電所なのだから、あなたたちの家の近くに建ててくれ。
 とても正しい理屈だ。でもやっぱり家の近くには建てたくない。ところが東京は電力がたくさん必要だ。何とか隣町の人たちに、「原発を受け入れる」と言わせなくてはならない。
 そこで原発を受け入れた地域には、多額の交付金や税金が、政府や東電から支払われることになった。さらに原発が建てば多くの作業員が必要になるから、地元の雇用が生まれる。仕事がなくて困っていた人たちも大助かりだ。親子二代の原発作業員という人たちもたくさんいる。だから福島県のように一度原発を建設してしまった地域では、なかなか原発を手放せなくなってしまう。オマケが豪華すぎるのだ。オマケなしでは生活が苦しくなる。もしも原発の数が減れば、そこで働いていた多くの人たちが、仕事を失うことになる。だから地元としては、原発はいらないとはなかなか言えなかった。

 僕も以前、ある原発近辺の町だけは「学校が冷暖房完備で温水プールがある」とか、「交付金を分けなくてはならないから、市町村合併に同意しない」という話を聞いていました。
 周囲の町の人たちは、その「原発マネー」を、羨ましがっていたのです。
 「カネで言うことをきかせる」という方法は下品ではありますが、一度それに慣れてしまうと、そのカネなしでは、生きていけなくなってしまう。
 今回の事故が起こらなければ、日本中で、同じような状況が続いていたことでしょう。


 この森さんの話のなかで、僕が多くの人に読んでもらいたいのは、この部分です。

 だから東電には責任がある。政府や多くの機関にも責任がある。知らせるべきことを知らせなかったからだ。
 でもだからこそ、ここでもう一度、ゆうだい君の手紙の最初の文章を思い起こしてほしい。


「突然ですが、僕のお父さんは東電の社員です」


 だからゆうだい君にとっては、東電への批判や悪口は、自分のお父さんへの批判や悪口に聞こえてしまう。
 例えば東電の社員たちを憎む人。ひどい目にあわせてやりたいとまで口にする人。
 世の中には実際には、そういう人たちがいる。でもきっとそういう人たちの多くは、福島から避難してきた人たちを差別する人たちと同じなのだと僕は思う。事件や不祥事が起こるたびに、悪いのは誰だと大きな声をあげる人たちだ。悪いやつは成敗してやると叫ぶ人。もしかしたら自分にも責任があるのではとか、絶対に考えない人たちだ。
 企業の責任と、そこで働く人たちの責任とを、絶対に一緒にすべきではない。もちろん企業は、そこで働く人たちによって構成されている。その意味では、一人ひとりにも責任がある。でもその責任は、企業という大きな組織が負うべき責任とは、絶対に違うはずだ。

 森さんは、ここで、「組織と個人」についての話をしていきます。
 なぜナチスホロコーストは起こったのか?
 なぜ同時多発テロは起こったのか?
 その報復として、アメリカがアフガニスタンイラクで行ったこと。
 ルワンダでの隣人同士の虐殺の連鎖。

 なぜそんなことができるのだろう。なぜそんな残虐なことができたのだろう。あなたはきっと、普通ならできないはずだと考える。自分がもし、あの時代のドイツに生まれてナチスの兵士になっていたとしたら、きっと命令には従っていないはずだ。そんな残酷なことはできませんと上官に反論しているはずだ。そう考えてあなたは、やっぱりわからなくなる。なぜあんな残虐なことができたのだろう。

 そして、森さんは、1963年にアメリカの大学で行われた「ミルグラム実験」(アイヒマン・テスト)を紹介します。
 ここでは、ほとんど同様の内容で、2010年にフランスのテレビ局が行った同様の実験のほうを引用します。

 一般の参加者80人を集めて、対戦相手が質問に答えられなかったら、罰として身体に電流を流す新形式のクイズ番組の収録だと説明した。もちろんその対戦相手は、(ミルグラム実験と同じように)苦しむ演技をするようになっていた。
 番組の収録は始まった。参加者の多くは、司会者や観客たちの「処罰せよ!」との声に従って、電圧のレバーを押し続けた。途中でやめた人は、80人中16人しかいなかった。何と80%の人たちが、相手が死ぬかもしれないと何となく思いながらも、最高値の450ボルト(心臓が停止する可能性のある数値で、そのことは事前に説明されていた)までスイッチから手を離そうとはしなかった。

 いまの世の中のことですから、「どうせこれで人が死ぬことはないんだろ。これも演出なんだろ?」とみんな思っていたのかもしれません。
 それでも、目の前には、演技とはいえ、苦しんでいる人がいるのです。
 にもかかわらず、こんな結果が出てしまう。


 僕はずっと疑問でした。
 あのナチスの時代にだけ、偶然に「世界史上類をみないような、残虐な人間たち」がドイツに集団発生したのだろうか?と。


 そんなことはないんですよ、絶対に。
 ナチスという組織が引き金になったことは間違いないけれども、そういう「引き金」があれば、大部分の「ふつうの人」には、ものすごく残酷なことができてしまうのです。
 僕だって、あの時代にドイツに生まれたら、加害者か、被害者のどちらかになっていたかもしれない。


 東電だって、「世界最悪の企業」だと言われ、叩かれているけれど、「この日本にあるたくさんの企業の中で、東電だけが、突出して悪いことばかりしていて、社員もひどい連中ばかり」だということがありえるのでしょうか?
 同じような「想定外の事態」が起こったときに、完璧な対応ができる企業が、いったいどのくらいあるのだろう?
 もちろん、東電に「責任」はあります。「だいじょうぶです」って、ずっと言い続けてきたんだから。
 でも、「同じような問題を抱えている」企業や組織はたくさんあるはずです。
 ところが、みんなそれを認めるのが怖いから、「東電を特別な会社にしてしまう」ことによって、「安心」しようとしています。
 そういう「思考停止」は、未来への「負の遺産」を増やし、同じ間違いを繰り返す元凶となるだけなのに。


 森さんは、最後にこうおっしゃっています。

 最後にもう一度書くよ。本当にごめんなさい。今のこの事態は、言うべきことを言わなかった僕たち大人世代の責任だ。
 だからお願い。二度とこんな過ちは起こさないでほしい。今回の事態を教訓にして(実はまだまったく終息できていないけれど)、地球のため、未来に生きる人たちのため、人類以外の命のため、最も良い方法を考えて、そして実践してほしい。
 もしかしたら、「自分たちにできなかったことを押しつけるなよ」と思われるかな。ならばこう言おう。
 だからこそできる。だってあなたたちは、僕たちの過ちを知っているのだから。

 僕も、そうであってほしいと願っています。
 ただ、僕たちだって、「前の世代の大人たちの過ちを知っていた」はずなんだよね。
 でも、できなかった。
 何をどうしていいかさえ、わからなかった。


 できれば、「そんなバカな大人たち」を乗り越えていってくれないか。
 厚かましいお願いだと、僕も思うけれど。

 

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