琥珀色の戯言

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J・エドガー ☆☆☆☆



ストーリー(あらすじ)


FBI(アメリカ連邦捜査局)の初代長官を務めたジョン・エドガー・フーバーJ・エドガー)の半生を、クリント・イーストウッド監督とレオナルド・ディカプリオの初タッグで描くドラマ。1924年、FBIの前身である捜査局BOIの長官に任命され、35年にFBIへと改名した後も、72年に他界するまで長官として在任したJ・エドガーは、カルビン・クーリッジからリチャード・ニクソンまで8人の大統領に仕え、FBIを犯罪撲滅のための巨大組織へと発展させていった。しかし、多くの功績を残した一方で、時に強引な手腕が物議をかもし、その私生活は謎に包まれていた……。脚本は「ミルク」でアカデミー賞を受賞したダスティン・ランス・ブラック。共演にナオミ・ワッツ、「ソーシャル・ネットワーク」のアーミー・ハマーら。

参考リンク:映画『J・エドガー』公式サイト



2012年4本目の劇場鑑賞作品。
豪雨のなか、月曜日のレイトショーにやってきた観客は、10人足らずでした。
実はこの『J・エドガー』、九州では福岡県と沖縄県にしか上映館がなく(沖縄は1館のみ)、仕事を終えて車を運転し、なんとかレイトショーに間に合いました。
イーストウッド監督、ディカプリオ主演で、この冷遇のされっぷりは……よっぽどつまらない映画なのか?と不安だったのですが、僕はこの映画、面白かったです。
しかしながら、アメリカの近現代史に対する予備知識が最低限はないと、話についていくのが大変でしょうし(「リンドバーグ」という名前を聞いて、『今すぐKISS ME』しか思い浮かばない人は、この映画を観に行くのはやめておいたほうが無難です)、イーストウッドらしい、「すっきりしない映画」ではあるんですけどね。


この映画、けっこう足早に、そして、時代を行きつ戻りつしながら、フーバー長官の人生をたどっていきます。
ちなみに、映画のなかでは、多くの親しい登場人物は「エドガー」と呼び、それ以外の人たちは「ミスター・フーバー」と呼んでいますが、日本の歴史の教科書では「フーバー長官」と呼ばれることがほとんどだと思います。
イーストウッドが、あえて、『ジョン・エドガー』というタイトルにしたのは、彼のプライベートな部分や内面にまで踏み込んでいく、という決意のあらわれなのでしょう。


僕は、冒頭のシーンで、思わず、「『スナッチャー』かよ!」と、往年のゲームファンにしかわからないようなツッコミを心に抱いてしまいました。
でも、このシーンはすごく大切なんですよね。
テロリストにとっては、「勇気ある行動」、直接関係のない他者にとっては「怖いわね」「かわいそうだね」という「爆弾テロ」は、その攻撃にさらされる側にとっては、どんな権力者にとっても、「子供の泣き叫ぶ声」や「家族の生命の危機」という「恐怖の体験そのもの」なのです。
僕たちは、ついつい、そういうテレビ画面の向こうにある「事件」を俯瞰してしまうけれど、それは、当事者にとっては、「いま、そこにある危機」。
フーバー長官は、若いころ、上司がテロで危うく命を取り留めた現場にいき、「このままでは、(自分も含め)多くの一般市民が共産主義者たちにやられてしまう」と考えるようになりました。
しかし、それを防ぎ、テロリストを根絶して社会を安定させるためには、こちら側にも「力」が必要です。
それも、「圧倒的かつ絶対的な力」が。


僕はこの映画をみていて、フーバー長官の「権力欲」と「相手を屈服させるためなら、なんでもやる」ことに驚かされましたし、その一方で、「テロリストと戦ったり、凶悪犯を捕まえるためには、『ワイルド7』みたいな連中じゃないとダメなのかな……」とも考えさせられました。
この物語の終盤で、フーバー長官は、「あなたは、何が真実なのか、自分でもわからなくなってしまっている」と指摘されます。
「権力欲を満たすための権力」なのか、それとも、「国や国民、そして身近な人を守るための権力」なのか?
たしかに晩年は、フーバー長官自身にも、「よくわからなくなってしまった」のだろうなあ。


以前、アメリカ人の英会話の先生と、同時多発テロ、そして、イラク戦争の話になりました。
「アメリカは同時多発テロを受けて、多くの人を失った。でも、アメリカ軍の攻撃で、イラクでは一般市民の命がもっとたくさん失われている。こんなに国力が違う国を攻撃するなんて、アメリカには自制心がないのか?」
その問いに、先生は、こう答えてくれました。
「いや、アメリカ人はみんな、今度は自分がテロで死ぬかもしれない、飛行機が突っ込んできたり、炭疽菌を入りの手紙を受け取ったりするかもしれないと不安だし、怖いんだ。『国力が違うのに』というけれど、テロを起こされれば、誰が死ぬかなんてわからない。自分や家族や友人が死ぬかもしれない。よそからみたら、大きな力の差があるのに、と思うのかもしれないけれど、アメリカに住んでいる人間は、『やらなければやられるんじゃないか』と考えずにはいられないんだよ」


人間同士でも国と国でも、一度相手を疑い、信じられなくなったら、相手を「支配」する以外には、「関係」を築けない場合がある。
それをはじめてしまったら、もう、「自分が敗れ去るまで」後戻りはできない。


フーバー長官は、8人の大統領に、48年間にわたって仕えてきたのですが、それだけ長期にわたって権力を維持できたのには、高官たちの秘密を調べた「極秘ファイル」の存在が大きかったといわれています。
みんな、自分のスキャンダルが流出するのをおそれて、フーバー長官に手を出せなかった。
しかしながら、フーバー長官というのは、「権力者が権力を握るために必要な汚れ仕事」(諜報や反対派の弾圧など)を、自らの意思で、一手に引き受けてくれた人でもありました。
大統領たちにとっては、「敵にまわしたくはないけれど、とりあえずやりたいようにやらせておけば、自分の手を汚さずに『やりにくい、やりたくない仕事』をやってくれる便利な人物」でもあったのではないかと思うのです。


ちなみに、フーバー長官って、「科学捜査をとりいれた功労者」でもあったんですね。


「自分たちを傷つける連中をなんとかして排除し、安心して暮らしたい」
「そのためには、あいつらに対抗できるような武器と権力を持った組織が必要だ」
「でも、その組織の力が強くなりすぎると、今度は自分たちが弾圧されるんじゃないか?」
どのあたりを「落としどころ」にするかは、本当に難しい。


「ルールを守らなければ、国家は成り立たない」
「ルールを遵守することにばかりこだわっていては、国は守れない」


フーバー長官がいなかったら、アメリカはどうなっていたのでしょうか?
混沌が長く続くことになったのか、もう少し優しい国になったのか?


歴史好き、イーストウッド好きの僕にとっては、大満足の映画でした。
ディカプリオの老けメイク、最初はちょっと「かくし芸大会」っぽくて、観るたびに笑いそうになってしまったのですが、最後のほうではすっかりなじんでいましたし。


観る人を選ぶ映画であることは、間違いありません。
アメリカ史に対する予備知識がないと置いていかれるので、「日本人向け」とも言い難い。
それでも、ここまで読んできて、「面白そうだ」と思えるのなら、観て損はないはずですよ。

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