琥珀色の戯言

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第146回芥川賞選評


文藝春秋 2012年 03月号 [雑誌]

文藝春秋 2012年 03月号 [雑誌]

今月号の「文藝春秋」には、田中慎也さんの『共喰い』、円城塔さんの『魔術師の蝶』の2作授賞となった芥川賞の選評と受賞作が掲載されています。
恒例の選評の抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)。

黒井千次
 五篇の候補作を通読した時に浮かんだのは、一方の端に伝統的な小説の世界を守ろうとする田中慎也氏の『共喰い』があり、反対の端には従来の小説の約束を踏み潰して新しい場所に出ようとする円城塔氏の「道化師の蝶」があるという構図だった。そして他の三篇は、両者の張り渡した緊張の糸のどこかに、それぞれ自分の位置を定めて結び目をつくっている、といった印象を受けた。


(中略)


(「道化師の蝶」について)
 判断保留のまま選考の場に臨んだが、他の選者の支持によって受賞作と決ったことは喜ばしく思う。芥川賞は小説としての完成度のみを競うのではなく、多様な可能性に向けて出発する足場を提供するものなのだろうから、時としてある選者の理解が及ばぬ作品が受賞作と決ってもおかしくはない。ただ注文をつけるとすれば、読む者に対して不必要な苦労をかけぬような努力は常に払われねばなるまい。作品の入口や内部の通路をもう少し整備してもいいような気がする。

川上弘美
 ここにある日常。または非日常。この世界の一部。また、この世界の全体。それらを眺め思考し、物語をつくりだす。それが、小説です。
「この世界」には、生きている猫もいれば、死んでいる猫もいます。それらあまたの猫を、小説家は描いてきました。ところが「道化師の蝶」は、生きている猫と死んでいる猫だけでなく、死んでいるのと同時に生きている猫、をも描こうとした小説なのだと、私は思ったのです。 

高樹のぶ子
(「道化師の蝶」について)
 伝えるためではなく、言葉で構築した世界に、読者を迷い込ませるのが目的であるなら、根気強い読者には根気強く彷徨って貰えるだろう。得心できるより、得心できないものに快を感じる読者もいるだろうが、それは私ではない。にも拘わらず最後に受賞に一票を投じたのは、この候補作を支持する委員を、とりあえず信じたからだ。決して断じて、この作品を理解したからではない。

山田詠美
 『道化師の蝶』。この小説の向こうに、知的好奇心を刺激する興味深い世界が広がっているのが、はっきりと解る。それなのに、この文章にブロックされてしまい、それは容易に公開されない。<着想を捕える網>をもっと読者に安売りしてほしい。
 『共喰い』。この作者の文章には遠近法があると感心した。しかし、それは、世にも気が滅入る3D。それなのに、何故だろう。時折、乱暴になすり付けられたように見える、実は計算されたであろう色彩が点在して、グロテスクなエピソードを美しく詩的に反転させる。 

小川洋子
 もし自分の使っている言葉が、世界中で自分一人にしか通じないとしても、私はやはり小説を書くだろうか。結局、私に見えてきた模様とは、この一つの重大な自問であった。

島田雅彦
(「共喰い」について)
 作者が、近代小説の理屈よりも神話的荒唐無稽に惹かれているのだとすれば、父と子の神話的原型を忠実になぞるのも一つの選択である。この古臭さは新鮮だ。また、男の暴力性に向き合う女性登場人物たちが魅力的だった。


(「道化師の蝶」について)
 文学には『フィネガンズウエイク』のように個人言語を発明し、それを使って書く自由もある。『タイムマシン』の作者H・G・ウエルズさえ、ジョイスの試みを「わからん」といったが、『道化師の蝶』はそこまで「わからん」作品ではない。こういう「やり過ぎ」を歓迎する度量がなければ、日本文学には身辺雑記とエンタメしか残らない。いや、この作品だって、コストパフォーマンスの高いエンタメに仕上がっている。

宮本輝
 田中慎也さんの「共喰い」は1回目の投票で過半数を得て、票数だけならこの作品が受賞作と決まったようなものだった。
 小説の構成力、筆力等は、候補作中随一であることは、私も認める。しかし、私はこの「共喰い」という小説を生理的に受けつけることができなかった。


(中略)


 選考会で最後まで紛糾したの円城塔さんの「道化師の蝶」をどう評価するかという点だった。
 これは小説になっていないという意見もあれば、読んだ人たちの多くが二度と芥川賞作品を手に取らなくなるだろうとまで言う委員もいた。賛否がこれほど大きく割れた候補作は珍しい。
 私はその中間の立場にいて、私には読み取れない何かがあるとしたら、受賞に強く賛成する委員の意見に耳を傾けたいと思っていた。

石原慎太郎
 かろうじての過半で当選とはなった田中慎也氏の『共喰い』も、戦後間もなく場末の盛り場で流行った「お化け屋敷」のショーのように次から次安手でえげつない出し物が続く作品で、読み物としては一番読みやすかったが。田中氏の資質は長編にまとめた方が重みがますと思われる。
 どんなつもりでか、再度の投票でも過半に至らなかった『道化師の蝶』なる作品は、最後は半ば強引に当選作とされた観が否めないが、こうした言葉の綾とりみたいなできの悪いゲームに付き合わされる読者は気の毒というよりない。こんな一人よがりの作品がどれだけの読者に小説なる読み物としてまかり通るかはなはだ疑わしい。
 故にも老兵は消えていくのみ。さらば芥川賞

なお、毎回読みごたえのある選評を書いてくれる村上龍さんは、今回欠席でした。残念。
そして、もともと今回で辞められる予定だった黒井千次さんに加えて、あの石原慎太郎さんも退任されるようです。
昨今の他の選考委員との「ズレ」をみていると、いたしかたないのかな、とは思いますが、「選評ウォッチャー」としては、さびしいかぎりです。


今回は、受賞作が2作ということで、この2つの作品への言及が大半を占めていました。
なかでも『道化師の蝶』への評価は、真っ二つに割れていて、石原さんの選評によると「再度の投票でも過半に至らなかった」のだとか。
この選評を読んでいると、川上弘美さんと島田雅彦さんが強く推していたのは間違いないようです。
川上さんの選評が、「まとも」になってきていることに、今回はちょっと驚きました。
これまでは、「選評というか、これポエム?」っていう感じだったので。
石原さんが「反対派」だったのも確実でしょう。


僕も実際に『道化師の蝶』を読んでみたのですが、かなり難しい作品だと感じました。
というか、ひと通り読んではみたのですが、自分がこの作品をちゃんと読みこなせたのか、全く自信がありません。
でも、この選評を読んでいると、芥川賞の選考委員をやるような大家たちでも、「わからない」人がいるのならば、僕がわからないのはしょうがないですよね。
僕自身は、「読みこなそうという過程は、けっこう面白かった」のですが、「じゃあ、今後も円城さんの作品をフォローし続けますか?」と問われると、とりあえず保留かな……


ただ、こういう作品を「わかりにくい」という理由で排除していけば、同じような作品(今回でいえば『共喰い』のような小説)ばかりになっていくのではないかと思いますし、島田雅彦さんが仰っておられるように「『やり過ぎ』を歓迎する度量がなければ、日本文学には身辺雑記とエンタメしか残らない」のかもしれません。
現実的には「わからない」ものを評価するのは、なかなか難しいことなのでしょうけど……
僕としては、『道化師の蝶』への授賞は、僕自身が「こういう作品に接する機会を与えてもらった」という意味で、賛成です。


『共喰い』、僕は、宮本輝さんや石原慎太郎さんに同意なんですよ。
上手い文章であることは認めるけれども、「戦後間もなく場末の盛り場で流行った『お化け屋敷』のショーのように次から次安手でえげつない出し物が続く作品」という石原さんの選評は、言い得て妙なのではないかと。
これ、いつの時代の小説なんだ?と言いたくなるようなレトロ感とセックス&バイオレンスの大サービス。


『共喰い』は、作者の田中慎也さんが受賞会見で石原都知事にかみついて話題になり、もう20万部も売れているそうなのです。
著者のキャラクターや話題性で、本が売れ、作品が読まれているというのは、出版界にとってはありがたいことなのでしょうけど、これからは、芥川賞の受賞会見でみんなパフォーマンスをやらなくてはならなくなるかもしれません。
ああ、文学プロレス!
そもそも文学というか文壇って、もともとプロレスみたいなもので、そういう「フェイク」込みで、みんな楽しんでいるという面もあるのでしょうけど。

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