琥珀色の戯言

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311を撮る ☆☆☆


311を撮る

311を撮る

出版社/著者からの内容紹介
2011年10月の山形ドキュメンタリー映画祭の震災特集上映では20を超える作品が上映されました。ドキュメンタリー映画『311』もその1本です。
この映画は、作家、映画監督の森達也、映像ジャーナリストの綿井健陽、映画監督の松林要樹、映画プロデューサーの安岡卓治の4人が、東日本大震災発生から2週間後、震災をその目で確認しようと原発事故の福島県から陸前高田市大船渡市、そして石巻の大川小学校などを取材した作品です。
カメラは壮絶な現実を切り撮りながら、4人がこれまで背負った「撮る側」の本性までも映し出します。映画『311』は、いわば震災被害だけでなく、取材者を捉えた類稀な作品です。
本書ではこの4人の監督が、単なる取材経過の紹介にとどまらない、ドキュメンタリー作家としての自己と現実の遭遇についての可能な限り詳細な著述に努めました。
監督、取材者としての「業」が語られ、現場での戸惑い、揺らぎを見つめ直します。
映画『311』とともに、是非、本書で震災に向き合った監督たちの思いに触れてください。


 この映画の話を『シネマトゥディ』の記事で読んだとき、僕は「森さんの久々の映像作品でもあるし、観てみたいな」という興味と、「遺体を撮るなんて酷いな」という嫌悪感が入り混じっていました。


 森達也さんの項から。

 不幸の度合いが大きければ大きいほど、被写体としての価値は増大する。当たり前のこと。でもならばなぜ、人は誰かの不幸に興味があるのだろう。そもそも僕はなぜここにいるのだろう。なぜ両親を亡くした子どもを撮りたいなどと考えたのだろう。
 想定外の津波が沿岸に襲来して未曾有の大地震で多くの建物が崩壊したとしても、もしも人の被害がまったくなかったならば、間違いなく僕はここには来ていない。メディアの数だってもっと少ない。もしも人の被害がないのなら、これほど大きなニュースにもなっていない。
 ならば帰結される結論は一つ。メディア(もちろん僕も)は人の不幸を撮るためにここにいる。
 事件や事故、そして災害は、すべて「人の不幸」が前提だ。愛を訴えるとか絆を確認するとか後世の教訓にするとか、そんな綺麗ごとで自分や誰かをごまかしたくない。状況が悲惨であればあるほど、記事や映像は価値を持つ。だって人は人の不幸を見たいのだ。そして僕たちは、人のその卑しい本能の代理人だ。つまり鬼畜。謙遜でも比喩でも開き直りでもなく、鬼畜のような行状を仕事に選んだのだ。

 この本では、『311』をつくった4人の、それぞれの「心情」と「現地でやったこと」が書かれています。
 「何を撮るか」というのは決めず、とにかくドキュメンタリストとして、「現場」に向かったこと。遺体を撮ることに葛藤はあったけれど、「みんなが撮らないからこそ、あえて撮った」こと、そして、「それでも撮らずにはいられない自分は、鬼畜だ」という自責の念。


 僕は森さんの映像作品や文章が好きです。
 でも、この本は、正直、読んでいてつらかった。
 それと同時に、腹立たしくもありました。
「自分は鬼畜だ」
 森さんは、そう長くもない文章のなかで、この言葉を繰り返しておられます。
それは、おそらく「実感」ではあると思うんですよ。


 僕には「遺体を撮ることの是非」は判断しかねます。
 自分だったら、撮らないと思うけど。
 戦場カメラマンの本を読むと、遺族がむしろ「この酷い仕打ちを世界に伝えてくれ」と、撮影を望む場合もあると書いてありました。
 でも、「津波」は、自然現象です。
 「この災害の酷さ」を記録しておくことは、後世の防災のために、重要なのかもしれません。
 とはいえ、「そのために身内の遺体を世間にさらす」ことには、抵抗があるのも事実でしょう(戦場でも、すべての人がアピールのために遺体をさらすことに賛成してはいないはずです)。


 しかしながら、その一方で、「何かを書く」とか「報道する」というのは、誰かを傷つける可能性を常にはらんでいます。
 「自殺なんてするヤツは、人間の屑だ」
 「ソーシャルゲームで金儲けをするなんて許せない」
年間3万人が自殺する国では、それを読んで、身近な誰かを思い出す人は、少なくないはずです。ソーシャルゲームをつくって生計を立てている人や、その家族もいる。
 どんな「正論」であっても、誰かを傷つけずにはいられない。
 それは、誰の目に触れるかわからないブログのエントリだって、同じことなのですけど。


 僕は、「私って、バカだからさあ〜」って予防線を張っておいて、バカなことをやる人や、「俺って口が悪いから」と前置きしてから悪口を言う人が嫌いです。
 本当にバカだと思っているのなら、バカなことはしないように気をつければいいし、口が悪いと意識しているのなら、慎めばいい。
 そういうのって、「最初に言い訳をしておくことによって、『だから、自分が何をしても許してね』という逃げ道をつくっている」ようにしか思えないんですよ。


 僕は、この本のなかの森さんたちの言葉に、そういう「往生際の悪さ」を感じずにはいられませんでした。
 本当に撮りたい、撮らなければならないのであれば、黙って撮ればいい。
 それを批判されたら、「自分は鬼畜だから」なんて逃げるのではなく、黙って去るか、「なぜ撮る必要があると考えているのか」堂々と反論すればいい。


 「そういうふうに、自分に言い訳をしなければならないほど、衝撃的な光景だった」ということなのかもしれませんが……
 
 
 でも、「人の不幸を見たがる人がいる」からこそ、世界は「不幸なニュースにあふれている」のですよね……
 もし、視聴者が他人の幸福しかみたいないのであれば、そういうニュースのほうが優勢になるはずだもの。

 ファインダーに多比良が映る。悄然としていた。唖然としていた。立ち尽くしていた。誰に何を訊けばいいのか、何を理由に何を訊くのか、何のために自分はここにいるのか、あらゆることがわからなくなっていた。
 つまり後ろめたい。困惑しながら立ち尽くす多比良は、まさしく自分の姿でもあった。四人の姿でもあった。いやこの場面だけに限定されることではない。3月11日の夕刻に酒を飲んでゲラゲラ笑っていた自分を思い出すたびに、身の置き所がないほどの後ろめたさに苛まれている。僕だけではない。日本中が今、自分が生きていることの意味を考え始めている。後ろめたさに苛まれている。ならばこれは、広義のSurvivor's guiltだ。
 この時点でテーマはほぼ見えていた。もしも作品にするのなら、この「後ろめたさ」をテーマにする。そしてそれは、キャメラの向きを反転させることでもある。ただしそれが作品として成立するかどうかはわからない。言ってみれば被災地や原発周辺まで行きながら、被災者たちを後景にしてセルフ・ドキュメントを撮るようなものなのだ。当然ながら批判されるはずだ。不謹慎だと怒る人も現れるだろう。何よりもそんな内容を観たいと思う人がいるだろうか。たとえどれほどに重要なテーマが呈示されているとしても、誰も観たくない内容なら、それは作品として成立しない。

 僕が森さんたちの行為を「不謹慎だ」と言いたくなるのは、自分もまた、同じような「後ろめたさ」を感じてるからなのかもしれません。


 僕もぜひ、この『311』観てみたいと思っています。
 なんのかんの言っても、僕も「傍観している側」の人間だから。


参考リンク:『ハゲワシと少女』と「テレビを消す自由」(琥珀色の戯言)

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